大講堂



比叡山延暦寺東堂大講堂(平成16年(2004)11月13日、管理人撮影) 

 大講堂(だいこうどう)は比叡山延暦寺東塔に位置(外部リンク)する建物で、単に「講堂」とよばれることもありますが、横川の四季講堂などと区別するため「大講堂」と称されています。戒壇院よりも高い場所に位置しており、多くの法会の舞台ですが、幾度も焼失してきました。現在の建物は昭和38年(1963)に讃仏堂を移築したもので、寛永11年(1634)の建立です。この建物は重要文化財に指定され、最初から数えて10代目の建築物となっています。本尊は大日如来で、本尊の両脇には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍といった、比叡山から大成して新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されています。本尊は大日如来像。


大講堂の建立

 大講堂は平安時代初期、淳和天皇の天長年間(824〜34)に建造されたのが最初である。この時期は最澄示寂間もない頃で、初代天台座主義真(779〜833)の時代であった。

 大講堂建造年について、史料上に諸説ある。最も早い時期に設定しているのは『山門堂舎記』・『叡岳要記』といった中世における比叡山の寺誌である。『叡岳要記』には「天長元年(824)、勅により建立された」(『叡岳要記』巻上、大講堂)とあって、最澄示寂してから3年後の天長元年(824)のことであったとする。また同書裏書の「講堂秘銘」によると、講堂は最澄が建立したもので、伽藍結界壇場の地域をひらく前に土中に一つの鏡を埋めたという。それは胎蔵界の大日如来をあらわしているものであり、鏡面の大きさは7寸(21cm)であったという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)

 または淳和天皇は戒壇院とともに7間の講堂を建造するよう勅を下していたが、もとは授戒において勅使ら散宿のために用いる戒壇院の付属物として計画されていたが(『伝述一心戒文』巻中、造戒壇講堂料九万束達天長皇帝下近江国文)、造立が戒壇院と同時期とするならば、天長4年(827)5月2日に太政官が戒壇院・講堂造立料として9万束を近江国より施入させたこと(『叡岳要記』巻上、大講堂)をその一画期とすることができる。例えば『天台座主記』では天長5年(828)を大講堂の建立時期にあてており(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長5年条)、天長9年(832)9月3日に大講堂の供養導師として護命僧正(750〜834)を屈請したという(『天台座主記』巻1、1世義真和尚、天長9年9月3日条)。また戒壇院とともに造立された講堂を、大講堂とは別の施設とみて、大講堂の正確な建造年は不明としながら、弘宗王(?〜871以前)が深草先帝(仁明天皇)のおんために造立させた観世音菩薩像(『山門堂舎記』大講堂)の造立時期である9世紀中頃を、大講堂の造営時期とする説がある。

 第5世天台座主円珍(814〜91)は元慶年間(877〜85)に突如哭泣して悲しみ、「我が大唐請益の師である良ショ(ごんべん+胥。UNI8ADD。&M035702;)大和尚がにわかに遷化された。貧道(円珍)はただちに追福を修して門弟子の志をするべきである」といい、調布50端を喜捨して延暦寺講堂にて諷誦を修した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)

 天暦4年(950)に講堂は改造されており(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦4年条)、同11年(957)5月1日には改造が完了したのか、講堂において供養が行なわれている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦11年5月1日条)。しかしながら改造が終了して間もない康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院命院など全21宇が焼失してしまった(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。翌康保4年(967)3月11日には諸堂造営料として封戸500戸を施入する旨の宣下があり(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、康保4年3月11日条)、天禄2年(971)に講堂の桧皮葺が完了し、新造の仏像が安置された。講堂の規模はもとは5間であったが、この時より7間となった(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天禄2年条)。また最澄が講堂の地に埋めた鏡は、義真が天長年間に大講堂を造立したときに本尊の腹中に納めたが、大講堂が焼失した際に灰の中から件の鏡を取り出して、本尊を新造するときに再度腹中に納めたという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。天禄3年(972)4月3日、講堂をはじめとした5堂の供養が実施された。これ以前の1日には習礼が実施された。僧200人、伶人150人を屈請し、法会が終わってから終日舞楽が行なわれた(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天禄3年4月3日条)

 応徳2年(1085)6月7日、大講堂が破損したため、修造が開始された。修造は明年10月以前に終了した(『天台座主記』巻2、36世法印大僧都良真、応徳2年6月7日条)。寛治2年(1089)8月29日に大講堂・四王院・文殊楼の供養が行なわれている(『天台座主記』巻2、36世法印大僧都良真、寛治2年8月29日条)


焼失前の大講堂(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

法華十講の創始と六月会・霜月会

 大講堂はその名の通り、僧侶の学問研鑚の場として発展した。大講堂で現在最も重要視される法会に「法華大会(ほっけだいえ)広学竪義(こうがくりゅうぎ)」がある。このうち法華大会は「法華十講」とも称され、法華経8巻に無量義経1巻・観普賢経1巻をあわせた、いわゆる「法華三部経」あわせて10巻を講説する法会である。法華十講は古来、伝教大師最澄の忌月である6月に行なわれる「六月会(みなづきえ)」と、天台大師の忌月に行なわれる「霜月会(しもづきえ)」が実施されてきた。このうち法華十講が最初に行なわれたのが11月に実施された霜月会である。

 延暦17年(798)11月、最澄は始めて十講法会を行なったさらに延暦21年(802)11月中旬には一乗止観院において勝猷・奉基・寵忍・賢玉・歳光・光証・観敏・慈誥・実福・玄耀ら10人の僧を屈請して三部の経典を講演させ、六宗の議論を聴聞した(『叡山大師伝』)。またこの前年の延暦20年(801)11月14日に霜月会が行なわれたといい、義真が竪者となって遂業し、大安寺聞寂・薬師寺霊雲・東大寺慈光の3人が博士(証義者)を務めたという。このように当初は他寺の僧侶を招聘して議論を行なっていたが、大同4年(809)の霜月会では博士は義真が、竪者は円修(生没年不明)が務めており、延暦寺僧のみにて行なわれるようになったという(『天台座主記』巻1、宗祖伝教大師、延暦20年条)

 さらに弘仁14年(823)6月、最澄の1周忌に浄野夏嗣(生没年不明)は最澄を偲んで、弘通の鴻基(もと)をはじめることを欲して、延暦寺別当であった藤原三守(785〜840)・大伴国道(768〜828)とともに法華十講を行なわせたが、この時の講師・複講は義真・円澄(772〜837)・光定(779〜858)・徳善(生没年不明)・徳円(787〜?)・円正(生没年不明)・円仁(794〜864)・仁忠(生没年不明)・道紹(生没年不明)・興善(生没年不明)・興勝(生没年不明)・仁徳(生没年不明)・乗台(生没年不明)の13人が交替で務めた(『叡山大師伝』)。このように延暦寺において法華十講は六月会と霜月会で実施されることとなった。さらに詳細は不明だが、承和13年(846)には竪義を加えられたという。霜月会・六月会はともに立者(竪者)は南都(奈良)と北嶺(延暦寺)の僧が随時つとめていたが、探題に限っては必ず南都の僧がつとめることになっていた(『釈家官班記』巻下、六月会)。また天台系の寺院では法華十講が「階業」の一つとして位置づけられている場合があり、元慶元年(877)12月9日の太政官牒によると、元慶寺の学僧らが得度・受戒した後、複試・夏講を元慶寺にて行ない、立義一階を「延暦寺六月法華会」にて行うこととし、その他は諸寺に准じて伝灯満位の僧位に叙されることになっている(『類聚三代格』巻第2、仁和元年3月21日官苻)。「階業」とは講師五階(試業・複試・立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・立義)のことで、諸国講読師となる資格を得るためのカリキュラムのことである。元慶寺では講師五階のうち複試・夏講を元慶寺にて行ない、立義は延暦寺六月会の法華十講とし、他は諸寺に准ずることになっている。永観2年(984)成立の『三宝絵』には、霜月会に天台大師を供養する大師供の様子が描写される。それによると法華十講が終わった翌朝の24日に大師供を行なうものであり、「霊応図」を堂の中にかけて、供物を庭の前よりおくって茶を煎じ菓子を供え、香をたき花を捧げていた。時々鐃ハチ(金へん+(拔−てへん)。UNI9234。&M040271;)(にょうはち。小型のシンバルのようなもの)を打ち鳴らし、方々が画賛を唱える。この画賛は唐の顔真卿(709〜85)が撰したもので、円珍が請来したものであるという(『三宝絵詞』巻下、僧宝30)。「霊応図」とは『天台山智者大師霊応図』のことで、最澄が請来したものであり(『伝教大師将来台州録』)、「八家秘録」によると9尺(270cm)という巨大なものであった(『諸阿闍梨真言密教部類総録』)

 法華十講を大成させたのが康保3年(966)に天台座主となり、後世「叡山中興の祖」とされる良源(912〜85)である。康保3年(966)12月26日、良源は権律師となったが、同日に六月会に広学竪義を加えるとの宣下があった(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、康保3年12月26日条)。康保5年(968)6月、延暦寺にてはじめて広学立義(竪義)が行なわれ、立者(竪者)は覚円(生没年不明)が、博士(題者)は禅芸(902〜79)がつとめ、三観義と因明四相違(自らの提案に矛盾する提案を論証してしまうような理由)について出題された(『扶桑略記』第26、康保5年6月条)。またこの時、去年分の竪者は春叡(生没年不明)がつとめたという(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、安和元年条)
 広学竪義とは、諸経典についての題目について、大講堂にて論義することである。竪者(りっしゃ)は題によって講じ、問者はこれに対して難じ、精義者(証義者)は審判をし、探題は出題者であり論場を統轄した。広学竪義は六月会における法華十講の「五巻の日」(ごかんのひ。“いつまきのひ”とも)の夜に「夜儀」として実施された。「五巻の日」とは法華経の第5巻を講説する日のことで、法華讃歎を実施して「薪の行道」が行なわれる。法華経の第5巻の「提婆達多品」が、童女の成仏を説き、悪人成仏・女人成仏とされたことから尊重されたことから、第5巻の「提婆達多品」を講説する「五巻の日」が尊重されたものである。

 良源が創始した頃の広学竪義について、以下の説話にその雰囲気を知ることができる。
 延暦寺の覚運(953〜1007)は、早くから菩提を求め、念仏を業としていた。これをみた天台座主良源らは、「このような人が大業(竪義)をとげなかったら、道の恥である」といって竪義に推薦し、四種三昧の義を出題した。覚運は布衣を着て堂に入った。見物の大衆たちは歎息しない者はいなかった。「こころに止観を論ずる者は、西方阿弥陀仏を念ず」という出題が読まれた時、覚運は不覚にも涙を流してしまった。これは覚運が道心の者であるため、出題者である探題がこの設問をつくったのであった。竪義は9題を無事に終え、第10問目も懸案はないようにみえたが、今度は出題者である探題の禅芸がいきづまって覚運に試問することができなかった。そこで天台座主良源みずから「私が精義(問答の可否を判定)しよう」といい、「六観世音を広うすれば即ちこれ廿五三昧」の出題について、良源は六観音のそれぞれの種子は何か問いかけると、覚運は「密教を習っていないので正しく解答できません」といった。良源は「すでに広学であるのに、どうして真言の教を知らないというのか」といった(『続本朝往生伝』権少僧都覚運)

 良源は天禄元年(970)7月16日に「二十六ヶ条制式」を作成して、延暦寺全山の門徒らに禁令を布告した。そのうち3ヶ条は法華十講に関連するもので、六月会の講師・立義者、十一月会の講師が饗応や調鉢・煎茶・威儀供を行なうことを禁止している(「天台座主良源起請」芦山寺文書。平安遺文0303)。また良源が座主になってから、それまで南都の僧侶がつとめていた探題を、これ以降は天台宗の僧侶のみがつとめることになったという(『釈家官班記』巻下、六月会)。このように良源は法華十講を叡山学徒の研鑚の場として重視し、学徒の習学意欲の向上につとめた。

 建保2年(1214)5月6日に六月会は宮中御斎会に准ずるとの宣下があり(『天台座主記』巻3、前大僧正慈円、建保2年5月6日条)、同月27日には六月会開白が行なわれ、勅使として平経高が登山してきた(『天台座主記』巻3、前大僧正慈円、建保2年5月27日条)。霜月会は嘉元元年(1303)に宮中御斎会に准ずるとの宣下があり、勅使は右中弁惟輔であった(『釈家官班記』巻下、十一月会)。これ以降、六月会・霜月会に勅使が登山することが恒例となり、現在まで続いている。

 法華十講の六月会と霜月会は、本来6月と11月に毎年実施されていたが、少なくとも文明11年(1479)以降には、5月26・27日から6月13・14日にかけて一定期間中に両会が連続して実施されるようになった。焼討ち以降は、「五年一会」と称され、満4年に一度行なわれるようになった。ただし忌日・天災・戦争などによって年期が移動する場合があった。現在法華十講は「法華大会広学竪義」として天台宗随一の古儀となり、叡山焼討ちから近年実施された平成19年(1998)まで96会が実施された(武2008)


焼失前の大講堂内陣須弥壇(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

大衆僉議

 大衆僉議(だいしゅせんぎ)とは、比叡山一山において集団による合議によって全山の意志を決定する方法である。大衆僉議自体は園城寺や興福寺でも行なわれたが、延暦寺の場合は大講堂の前庭にて行なわれ、大衆僉議のあとは、概ね軍事的行動に出るか、朝廷に嗷訴するという二通りのパターンがとられた。

 『延慶本平家物語』には大衆僉議の様子が毫雲の口を通して語られる。同書によると、延暦寺の毫雲(豪雲)は訴訟のため後白河法皇のもとに参じた。その名を聞いた後白河法皇は、「さては山門に聞こえたる僉議者だな。お前たちが山門講堂の庭において僉議をするように申せ」といい、毫雲は地を頭に傾けて、「山門の僉議というものは、特殊なものです。まず王の舞(舞楽の一つ)を舞(いますが、その)時には、面の下は鼻をしかめるようにします。三塔(東塔・西塔・横川)の僉議の様子は、大講堂の庭に三千人の大衆が会合して、破れた袈裟で頭を包んで、入堂杖として二・三尺ばかりの杖をそれぞれがつき、道芝の露を払って、小さな石を一つづつ持って、その石に腰をかけて並び、同宿であっても互いに見知らぬようにします。“満山の大衆立廻られ候へや”といって、訴訟の議題を僉議いたしますが、正当な場合は「尤々(もっとももっとも)」と賛同します。正当ではない場合は「不謂(いわれなし)」と申します。これがわが山の定まっている法なのです。勅定だからといって、直頭(ひたがしら。頭を包まないで、むき出しにすること)ではどうして僉議をすることができましょうか」と申したところ、法皇は面白がって、「さればそのいで立ちで参って僉議しなさい」と仰せになった。毫雲は勅定を蒙って、同宿十余人に頭を包ませて、下部(しもべ)には直垂・小袴などで頭を包ませた。以上十二三人ばかり率いて、御前の雨打ちの石に腰掛けて、毫雲は自身の訴訟の趣旨を最初より一時に申し述べると、同宿立ちはかねてから議論してきたことであったから、一同に「尤々(もっとももっとも)」と申したてた(『延慶本平家物語』第1本、毫雲事)

 またこの僉議の時には独特の発声法で、「歌を詠む音でもなく、経論を説く音でもなく、また差し向かい言談する様でもない」(『源平盛衰記』巻第四、豪雲僉議事)といい、「鼻を押さえ声を替えて」(『源平盛衰記』巻第四、豪雲僉議事)、発言者が誰であるかわからないよう、他者を気にせず自分の意見を述べるものであった。

 大衆僉議の様子は、『天狗草紙』延暦寺巻に「三塔会合僉議」として描かれる。そこでは裹頭の僧や武装した僧兵などが大講堂の前庭に立ち並び、「園城寺のひ弱い衆徒ら、これから押し出して寺を焼き討ちにしてやる」というと、それを受けて「この山は仏法繁昌の勝地である。訴訟は他の寺院と違って道理に基づかないことであっても正しい訴えなのだ。聖断が滞るのであれば、速やかに諸院諸堂を閉門し、七社の神輿を担ぎ出し、天下に騒動をおこしてやる」というと、それに賛同する僧が「尤(もっとも)」「尤(もっとも)」と答える。また『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』巻31でも、大講堂の前に人がびっしりと立ち並んで円陣を組んだ様子が緊迫感をもって描かれている。


度重なる焼失@

 元久2年(1205)10月2日午時(午前11時)、法華堂・常行堂の両堂(にない堂)から火災が発生し、類焼して講堂・四王院・延命院・鐘楼・文殊楼・実相院・経蔵などが焼失した(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)。承元2年(1208)4月19日に再建工事に着手され(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、承元2年4月19日条)、建暦2年(1212)5月25日、講堂の本尊に修復を加えて安置した。講堂が炎上してから根本中堂で行なわれてきた六月会も、この年から講堂にて修せられることとなった(『天台座主記』巻3、69世前大僧正慈円、建暦2年5月25日条)。この時も、大講堂が焼失した際に、本尊に納められていた鏡を灰の中から取り出して、本尊を新造するときに再度腹中に納めたという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)

 文永元年(1264)3月23日、天王寺別当職が園城寺に附されること、および丹波国出雲社の神人殺害に端を発して山門の大衆が蜂起し、大衆が敗北したが、25日、延命院が放火され、類焼して講堂・戒壇院・鐘楼・四王院・法華堂・常行堂・八部院等が焼失した(『天台座主記』巻4、83世無品最仁親王、文永元年甲子3月23日条〜25日条)。この時も、大講堂が焼失した際に、本尊に納められていた鏡を灰の中から取り出したという(『叡岳要記』巻上、大講堂、裏書、講堂秘銘)。その後叡山では園城寺との戦闘・山上の争乱・元寇が重なって大講堂の再建がはかどらず、文永6年(1269)7月11日には講堂造営の雑掌に関する院宣が下されている(『天台座主記』巻5、86世前大僧正慈禅、文永6年7月11日条)。それでも進捗しなかったらしく、文永10年(1273)5月2日には講堂の造営に関して、器量の住侶を雑掌とするよう綸旨が下された。そこで10カ年に限って料所を教因・真範・承詮の3人に配して、円滑な造営をはからせた(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、文永10年5月18日条)。それが功を奏したのか、建治元年(1275)12月8日に大講堂の棟上が行なわれた。そのために天台座主の澄覚法親王(1219〜89)が山上に登山してきて、講堂本尊の御衣木を根本中堂にて加持した(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、建治元年12月8日条)。このように迅速な運営の結果、10カ年に限って料所を教因・真範・承詮の3人に配したにもかかわらず、約束の10カ年が経過する前に大講堂が完成する可能性が出てきたらしい。そのため座主の澄覚法親王は3人の功績を認めて、建治2年(1276)2月3日に残り7カ年の料所運営を認めるよう、3人の雑掌の申状を院に奏上した。18日に申状のままに院宣が下っている(『天台座主記』巻5、87世前大僧正無品澄覚親王、建治2年2月3・18日条)。弘安8年(1285)7月21日、大講堂の供養が行なわれ、再建が完了した(『天台座主記』巻5、91世尊助親王、弘安8年7月21日条)

 再建してわずか13年後の永仁6年(1298)9月19日夜、放火による延焼のため、大講堂が焼失した。この事件は叡山内の争いによるものであった。前年の永仁5年(1297)8月に北谷住学生である理教房性算(生没年不明)が天台座主尊教(1249〜?)の恩寵によって勢力を拡大しており、叡山は性算一派の支配下に置かれつつあった。同じく北谷の学生である円恵(生没年不明)は性算の勢力拡大を憂慮して公家・武家に訴えたが、性算は訴訟を揉み消した。円恵は都率谷の住侶である承玄(生没年不明)らとともに八王子に閉篭し、周囲に逆茂木を設置して武装し、参詣者の足止めし、「三千衆徒の鬱訴」と称して座主の政務を妨害した。これに苦慮した性算らは公家・武家に訴えるとともに、16日には座主の門徒とともに八王子に閉篭する円恵・承玄を襲撃して両者を生け捕りとし、武家に引き渡した(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年8月条)。翌永仁6年(1298)9月17日には円恵・承玄の弟子20余人は甲冑を帯びて北谷の性算の住房を襲撃した。政所の辻にて合戦となったが、円恵・承玄の弟子20余人は散々に敗北して、19日亥刻(午後9〜11時)、退却する途上に大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火し、大講堂・戒壇院・文殊楼・四王院・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまった(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年9月17・19日条)。この年10月13日には後宇多上皇がひそかに叡山に登って諸堂が灰燼と化した様相を視察しているが、山門滅亡を嘆いたための行動であったという(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年10月13日条)。この事件の余波は翌正安元年(1299)まで続き、衆徒が座主・妙法院門徒と合戦に及ぶ事態にまで悪化した。幕府は放火の下手人をあばいて問題を解決するための使者を上洛させた。裁定によって門跡は山務に付せられ、所領は法華堂・常行堂の料所となり、性算は投獄された(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、正安元年4月1日条)。文保元年(1317)11月1日、大講堂本尊の開眼供養が行なわれた。座主の覚雲が導師となるため山上に登山してきた(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、107世二品覚雲親王、文保元年11月1日条)。元徳2年(1330)3月27日、後醍醐天皇臨席のもと、大講堂の供養が行なわれた(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、118世尊雲親王、元徳2年3月27日条)

 元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂・四王院・延命院・常行堂などが焼失した(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王)。このように鎌倉時代に大講堂はたびたび焼失し、そのたびに再建されているが、当初7間であった規模が、『山門堂舎記』では「桧皮葺の9間の堂」と記録されており(『山門堂舎記』講堂)、いつ頃の再建での変化か不明であるが、鎌倉時代に大講堂の規模が拡大していることが窺える。おそらくは弘安8年(1285)の供養願文に「新たに桧皮葺九間講堂一宇を建立し」(『弘安八年大講堂供養記』)とあることから、弘安8年(1285)の再建で9間に拡大したと思われる。


焼失前の大講堂背面(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

度重なる焼失A

 文和元年(1352)10月14日、北朝は延暦寺大講堂の木作始の日時を定めた(『園太暦』文和元年10月14日条)。延暦寺は大講堂の造営料を関所の通行料でまかなっていたらしいが、貞治5年(1366)には臨川寺料の加賀国大野荘の年貢の運送を抑留している。臨川寺料の加賀国大野荘の年貢の運送は、諸関による抑留が禁じられていたのだが、それを違乱したため、同年9月に重ねて勅裁が下された。しかしながら貞治6年(1367)に再度延暦寺造講堂関所がこれを抑留したため、足利義詮はこれを止めさせている(「足利義詮御判御教書」臨川寺重書案文。『大日本史料』6編28冊、305頁)。明徳4年(1393)には延暦寺は大講堂造営料木とするため宿敵園城寺・三尾新羅神領内の材木を伐採したらしく、2月17日に幕府は伐採を禁止している(「室町幕府御教書」園城寺文書84、旧園城寺文書・個人蔵)。応永3年(1396)9月20日にようやく大講堂供養が行なわれ、大講堂の再建が完了した(『天台座主記』巻5、145世一品尊道親王、応永3年9月20日条)

 明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃した。根本中堂に西坊城顕長・桃井某・東蔵坊師弟の4人が閉篭していたが、早朝に細川勢に放火され、炎上した。この時根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失し、戒壇院のみが残るありさまであった(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)。天文9年(1540)2月9日に大講堂の造営が開始され(『大館常興日記』天文9年2月9日条)、同年3月25日に延暦寺は大講堂造営奉加帳に義晴の加判を請うている(『大館常興日記』天文9年3月25日条)。大講堂の造営は思うように進捗しなかったらしく、天文22年(1553)4月20日に天台座主妙尭尊法親王(?〜1559)は越後守護代長尾景虎(上杉謙信、1530〜78)に大講堂造営の費用を寄進させている(上杉家文書)

 延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、大講堂もまた焼失した。信長横死後に再建されたらしいが、寛永7年(1630)9月18日の大風によって大講堂は、根本中堂・文殊楼・法華堂・常行堂もろとも顛倒している(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)


焼失前の大講堂外陣内部(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

寛永の再建と近世の修理

 寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂・大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永14年(1637)5月28日には大講堂の立柱の日時が定められた(『続史愚抄』寛永14年5月28日丙申条)。寛永19年(1642)12月19日に根本中堂の造営が完了し、この日の夜に供養が行なわれたが(『天台座主記』巻6、171世入道二品尭然親王、寛永19年12月19日条)、同年に大講堂・文殊楼もまた根本中堂完成年である寛永19年(1642)に完成したという(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)

 この時完成した大講堂は、桁行9間(33.6m)、梁間6間(22.7m)、軒高23.3m、入母屋造栩(とち)葺の巨大建造物で、南に面して建っていた。見た目は二階建9間の建造物にみえるが、単層7間の一重裳階付であり、裳階の部分が外陣となっている。内陣は石敷で低く、外陣は板張りで高く、天台密教特有の様式を備えていた。

 その後大講堂は根本中堂と同時に修理が行なわれ、寛文8年(1668)には屋根の栩葺替えが行なわれた。また柱総数60本のうち、すべて残らず腐朽しており、うち30本は7尺(2m10cm)から5尺(1m50cm)ほど根継ぎしなければならないほど深刻であり、ほかの30本も3尺5寸(1m5cm)から2尺(60cm)ほど根継ぎする必要があった。腐朽の原因は風通しの悪さにあったため、側廻腰貫下に換気窓を設けている(『比叡山山上御修理覆根本中堂廻廊文殊楼大講堂鐘撞堂伏見屋積帳』)

 元禄16年(1703)から宝永3年(1706)にかけてと宝暦4年(1754)の両度に屋根の葺替え、塗装の塗り直しが行なわれている。元禄16年(1703)からはじまった修復工事は、根本中堂・大講堂・本願堂・文殊楼・大黒堂・前唐院と、延暦寺東塔の建造物まるごと修理を行なったもので(『天台座主記』巻6、189世入道無品尭延親王、元禄16年条)、文化7年(1810)から翌8年(1811)にかけて屋根を銅板葺とし(『御修復雑記』、および「文化八年東塔止観院大講堂修復棟札銘」)、明治23年(1890)・大正8年(1919)の両度には屋根の小修理が行なわれた。明治31年(1898)12月28日には特別保護建造物(重要文化財)となり、隣接する大鐘台もまた明治35年(1902)に特別保護建造物(重要文化財)に指定された。戦後、大講堂の屋根銅板に腐蝕、軸部斗きょう(柱の上に位置する屋根を支える組み物)に弛緩がみられたため、昭和24年(1949)から同26年(1951)に総工費998万円をかけて大修理工事が行なわれた。総工費のうち、800万円が国庫負担で、残りが延暦寺が負担した。


焼失前の大講堂断面図(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)

大講堂の焼失と讃仏堂の移転

 大講堂は修理完成からわずか5年後に焼失してしまった。

 昭和31年(1956)10月11日午前3時40分頃、大講堂から火災があがっているのが発見され、延暦寺の宿直者20人が消火につとめたが、すでに大講堂の内部を焼いていた。海抜700mの深山であるため、大型消防車は現場には入れず、ケーブルカーで数台のポンプ車や消防団員を運び上げ、2時間後に消防署員・団員300人が集まったが、火が強く手のつけようがなかった。昭和29年(1954)10月に1300万円かけて大講堂の裏側に設けられた直径13m、深さ4.7mの防火用水槽があったが、消火用ポンプが一台しか使用できなかったため、大講堂が全焼。延焼して大鐘台(重要文化財)・前唐院・食堂・水屋・受付所のおよそ170坪を全焼した。大講堂に安置されていた重要文化財の持国天(一木造、彩色、像高145cm、平安時代初期)・多聞天(一木造、彩色、像高150cm、平安時代初期)・釈迦如来像(銅製鍍金、像高90cm、室町時代)・阿弥陀如来坐像(木造彩色、78cm、平安時代初期)が焼失し、ほかに大日如来像・弥勒像も焼失した。翌日、修学旅行で比叡山を訪れた山梨県甲府高の生徒100人は瓦礫と化した堂宇を見学するはめになってしまい、また一人の老婆が息せき切って焼跡にかけつけ、涙をボロボロ流しながら両手に数珠をもんで大声でお経を唱えていたという(「京都新聞」昭和31年10月11日夕刊)

 失火と放火の両面から警察の捜査がすすめられたが、なかなか捜査進捗せず、延べ1,000人の刑事を動員し、1,500人に事情聴取を行なった結果、1ヶ月後の11月15日に、延暦寺山上事務所受付係の19歳の少年を放火の容疑で逮捕した。少年は賽銭窃盗の容疑で逮捕されていたが、同日に放火を自供した。自供によると、無断下山したのを上司にしかられたため、これを恨みに思い、山上事務所からひそかに抜け出して講堂に忍び入った(「京都新聞」昭和31年11月15日夕刊)。少年は10月10日夜11時40分頃、大講堂の扉を合鍵で開け、東南の隅にたてかけてあった畳にマッチで放火した。少年の放火によって大講堂が全焼してしまったのだが、少年が受付係という低い役職にあることを快く思っていなかったことや、学歴コンプレックス、夢見た結婚の破談などから、この事件と金閣寺の焼失事件との類似点を指摘された(「京都新聞」昭和31年11月16日朝刊)

 現在の建物は、昭和38年(1963)に山麓坂本の讃仏堂(旧東照宮本地堂)を移築したもので、国の重要文化財に指定されている。

 讃仏堂はもとは東照宮の本地堂であり、比叡山の麓の坂本西端(現在の比叡山高等学校テニスコートの地)に造立されていた。東照宮は徳川家康の遺命によって、徳川家光の代になってから、家光が天海大僧正に命じて建立させたもので、勅許によって比叡山山麓の真葛原に鎮座することとなった(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)。寛永11年(1634)閏7月にまず神殿が完成し(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月条)、同月27日には勅会遷宮が実施され、天海大僧正が導師となり、比叡山の諸門主がことごとく集まって法会が行われた(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月27日条)。本地堂は翌日の28日に供養が行なわれている(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年閏7月28日条)。本地堂は主要部材の半数までが、いずれかの建築古材を再用したもので、古材は桧材、新材は松材であったことから、当時良材の集積を待つことなく建造されたようであり、そのことから古材と寛永8年(1631)の大風で顛倒した建造物との関連性が指摘されている(滋賀県教育委員会1963)。解体移築の際に発見された墨書によると、「とりとし寛永十年大津北国町山田奈々右衛門□□六月二日」(「小屋貫墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)・「寛永十年卯月…吉□」(「西脇間外陣境内法長押継手内雇ほぞ墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)・「寛永十年卯月十五日山田吉□御用頭」(「西側外内法長押継手内墨書銘」。滋賀県教育委員会1963所引)とあり、寛永10年(1633)には建造中であったことが確認される。本地堂の本尊は薬師如来で、日光月光二菩薩像・十二神将像・徳川歴代将軍の位牌が安置された(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)

 建物は桁行7間(20.9m)、梁間8間(22.2m)で、正面中央3間分に1間の向拝が突き出ている。単層入母屋造の瓦棒銅板葺となっている。梁間方向の前3間分は外陣で、梁間方向の奥3間のうち、桁行方向の中3間分を内陣として来迎壁・須弥壇を設け、両翼それぞれ2間分を脇陣として仮設の仏壇が設けられている。本地堂は寛文9年(1669)・貞享4年(1687)・元禄15年(1702)・享保3年(1718)・元文3年(1738)・宝暦11年(1761)・天明元年(1781)・文化8年(1811)・明治13年(1880)と9度にわたって修理されており、とくに宝暦11年(1761)には屋根を桧皮葺から銅板葺に改めている。

 本地堂は東照宮神殿に向かい合って立地していたが、近世において本地堂では毎日17日に「三院講」が行なわれ、三院の大衆が集まって論議を行なった。また徳川将軍代々の忌日にも三院の論議が行なわれるなど(『山門堂社由緒記』巻第2、近江州滋賀郡坂本神社仏閣記、東照大権現御社)、徳川幕藩体制下では重要視されたが、明治をむかえて東照宮信仰は衰退することとなる。神仏分離時に東照宮は日吉大社に、本地堂は名を讃仏堂と改めて延暦寺に、それぞれに分割管理されることとなった。

 前述したように、昭和31年(1956)に大講堂が放火によって焼失した。延暦寺では一山をあげて再興に全力を注ぎ、一時は鉄筋コンクリート造の旧様式のままの再建も検討されたが、焼失した大講堂の面積は703平方メートルという巨大なものであったため、そのままでの再建は断念された。昭和36年(1961)にいたり、讃仏堂を移転して大講堂とする再建案が決定され、同年4月1日、工事が着手された。大講堂跡には遺跡保存のため90cmの基壇を構築し、その上に面積455平方メートルの讃仏堂を移築した。工事は延暦寺の直営工事で進められ、総工費1億円をかけて昭和38年(1963)3月31日に完了した。山上の湿気対策のため側廻りをガラス障子とし、また外部を丹塗・彩色塗を施すなど現状変更をおこなっている(滋賀県教育委員会1963)。移築なった大講堂は昭和62年(1987)6月3日に重要文化財に指定された。



[参考文献]
・『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』(国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月)
・村田治郎・福山敏男・西川幸治「延暦寺の講堂」(『日本建築学会論文報告集』77、1962年9月)
・滋賀県教育委員会・比叡山延暦寺編『滋賀県指定文化財延暦寺大講堂(旧讃仏堂)移築工事報告書』(滋賀県教育委員会、1963年)
・井上光貞・大曾根章介校注『日本思想大系7往生伝・法華験記』(岩波書店、1974年9月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・黒田俊雄『寺社勢力〈岩波新書117〉』(岩波書店、1980年4月)
・東舘紹見「平安初期における法華講会の展開」(『大谷大学大学院研究紀要』9、1992年)
・佐伯有清『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館、1992年10月)
・即眞尊れい「法華大会・広学竪義」(『儀礼文化』27、2000年3月)
・小峯和明「声を聞くもの-唱導と大衆僉議」(『国文学研究』133、早稲田大学国文学会、2001年3月)
・武覚超『比叡山仏教の研究』(法蔵館、2008年3月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)


焼失前の大講堂鐘楼(『重要文化財延暦寺大講堂修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



「比叡山延暦寺東塔の旅」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る