延命院跡

 延命院は比叡山東塔東谷に位置した延暦寺の子院ですが、現在では廃寺となってしまっています。ただしその旧跡は東谷にあることが知られており、現在登山道となっている東坂の途中にあります。東塔主要伽藍からも行けるのでロープウェーでも行くことはできますが、今回は東坂から直接登ってみましょう。


坂本の日吉馬場(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)。ここから直進して比叡山をめざす。

 坂本から日吉馬場を直進して石段の入口に入ります。ここから東坂と呼ばれる延暦寺東塔主要伽藍へ約3kmの道程を歩きます。



 比叡山高校を左手に見ながら、途中お寺があるのでそこの石段を登ります。この52段の石段は「垢坂(赤坂)」と呼ばれており、左手には江戸時代の墓地・石仏があります。ここがかつての浄刹結界趾で、昔女性はここから先を登ることはできませんでした。

 写真では緩やかに見えますが30〜40度くらいの急勾配で、東坂の中ではここが一番しんどかったものです。


東坂の石段。平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)。石灯篭との角度差に注目。

 石灯籠をすぎると山道となります。行った前日には雨が降っていたため、流水のため道がえぐられたり、樹が倒れていたりするなど、以外に歩きにくいところでしたが、整備されているときは歩きやすいところであるはずです。

 何人か降りてくる人がいました。真夏でも涼しい比叡山の主要伽藍のエリアとは違って、東坂は平地と変わらないくらいに暑く、また日陰も他の場所と違って少ないので、真夏には注意が必要かもしれません。あとアブが何故か沢山います。


比叡山東坂(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



比叡山東坂(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 花摘社跡への道との分岐点が行程の半分ほどとなります。

 さらに登っていると、道の左側に宝篋印塔がみえます。目指す延命院跡はこの宝篋印塔の裏側になります。宝篋印塔から100mほど登ると東坂と悲田谷道の分岐点となり、さらに東坂を20mほど登ると覚運廟につきます。


 この宝篋印塔は比叡山の僧侶の墓らしく、銘文は苔などのため判読困難ですが、天保10年(1839)の紀年銘があります。この宝篋印塔の前には石段がありますが、写真でもおわかりのように現在の東坂の道の表面はその1mから1m50cmほど下になっています。170年の間に東坂が流水などのため1m50cmほどえぐられたことが知られます。この背後が延命院跡地です。

 延命院は比叡山延暦寺東塔東谷にかつて位置(外部リンク)した延暦寺の子院です。天慶元年(938)に完成し、朱雀天皇の御願寺としての機能していました。当初は大講堂の東側に位置していました。織田信長の比叡山焼き討ち後に東塔東谷に復興され、明治時代頃に廃寺となりましたが、江戸時代中期には比叡山麓の坂本に里坊が建立され、現在に至っています。


比叡山延暦寺東塔東谷の東坂の宝篋印塔(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



比叡山延暦寺東塔東谷の東坂の宝篋印塔の背面(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

延命院の開祖尊意@ 〜出家まで〜

 延命院を開創したのは尊意(866〜940)である。尊意の伝記は『尊意贈僧正伝』1巻に現わされている。編者などは不明であるが、文章などから10世紀中頃とみられている。その生涯を編年体で記すものの、弟子などの口伝を直接的典拠としていたらしく、出生の奇瑞にはじまって、夢想・霊応譚など説話的要素が多い。この『尊意贈僧正伝』は『続群書類従』9上に所載されているが、はじめの505字は前欠であったため、『日本高僧伝要文抄』から補ったとある。書き下し、現代語訳はいまだ存在していない。

 尊意は俗姓を息長丹生真人といい、左京の人であった。先祖は応神天皇第7皇子の稚渟毛二俣命で、皇子の3男佐芸王の11世の後裔であると伝えられる。尊意の母は35歳になっていたがかつて子がおらず、そのため子がないことを帰依していた僧に語ったところ、僧は「子を求めるのなら観音に祈りなさい。必ずや端正の男女を得るだろう」といった。母はこの言葉を聞いて、朝に夕方に祈った。貞観7年(865)母は奇夢をみて何ヶ月かたってから妊娠が発覚した。翌貞観8年(866)2月に男の子を産んだ。ほかに兄弟はなかったから、父母は大切に養った。6・7歳になった頃読書を好んで、村の子どもは尊意を一番とした。遊ぶ時に木を立てて幢を構え、石をたたいて仏とし、「南無」と唱えた。心は山林を楽しみ肉や魚を食べず、羽毛(鳥)を殺さなかった。隣家に一人の老翁がいたが、朝も夜も千手陀羅尼を読んでいた。翁は尊意の父母に「この子がもし必ず出家すれば、戒行が勝れた人になるだろう。私の見解に虚誕があろうか。千手真言を教えて欲しい。」 父母は「とてもよいことです」といった。そこで老翁は陀羅尼を授けた。幼少の心に常に諳誦し、たまたま比丘(僧侶)を見れば恋慕の心がおこった(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)

 貞観18年(876)7月15日、11歳の時鴨河の東の吉田寺で仏を見た。後壁に地獄画があり、その中に造罪の人受苦の相が描かれていた。たちまち遊楽を捨てる心がおこり、すなわち入山の志がおこった。父母はその心を見て、片時も門外から出さなかった。ここに王城の北山に幽遠の精舎(寺)があり度賀尾寺(のちの高山寺)といった。苦行僧がおり名を賢一といった。般若心経を持呪とし、呪縛を自らの本とした。貞観年間(859〜77)呪縛業によって得度受戒した。親しく賢一を家師とした。賢一との因縁のため度賀尾寺に登った。3年の間親家に帰らず、蔬食苦行した。幼稚の心に愁いはおこらず、日夜千手陀羅尼を読んだ。元慶2年(878)春、賢一は度賀尾寺を出て遠く越州(越前国)の白山に入ることとなった。ここに賢一は幼童に語って、「貧道(僧の一人称)は今遠いくにに行くことになった。再び逢うときはいつになるかわからない。そこで所持している薬師仏像を付属して去ろう」といった。本尊壇上に安置されている五寸の像はこれである(『日本高僧伝要文抄』第2、尊意贈僧正伝)

 元慶3年(879)9月14日、14歳の時始めて比叡山に登り、増全の房に入って昼夜陀羅尼を読んだ。増全はその器量をみて陀羅尼を読むことを止めさせ、朝は経巻を授け、夕方には義章を教えた。元慶6年(882)、17歳の時には習ったことは優れて長じており、文義は兼ね備わっていた。4月8日、落髪出家した。この日から中堂に100日間日参し、夏安居の後、親母に謁するため増全のもとを辞して下洛した。その頃南北二京(奈良京都)で霊験聖跡をことごとく巡礼した。ある精舎(寺)には一日三日、ある伽藍には五日七日と勤修練行した。紀伊国胡河寺(粉河寺)には七日修行し夢に長さ5尺(150cm)の大剣を得た。10月下旬に帰洛のついでに河内国若江郡の若江寺に寄宿した。白心の木がありその枝は折れて落ちていた。1尺(30cm)ほど切り取って比叡山に持って帰り、千手観音像を造った。一生帰依の尊はこれである(『尊意贈僧正伝』)


比叡山延暦寺東塔東谷の延命院跡(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

延命院の開祖尊意A 〜出家以降〜

 仁和2年(886)8月26日、尊意は21歳でついに出家し、年分度者の金剛頂業の課試に及第した。同3年(887)に戒壇院に登壇して受戒した。比叡山は12年篭山の制があり、尊意も12年篭山し、昌泰元年(898)7月15日に山門(比叡山)より出た。尊意は最初極楽寺初代座主の増全にしたがって、両部大法・諸尊等法を受けた。その後権律師玄照阿闍梨の所にて重ねて先学を研鑚して、蘇悉地法を習学した。さらに三部諸尊、各々の密語は多少を論ぜず皆一万回諳誦(そらんじて読むこと)した(『尊意贈僧正伝』)

 延喜19年(919)5月10日、尊意54歳の時に定心院に転入となった。さらに8月7日には伝法阿闍梨位の官苻を賜り、10月20日には文殊楼検校の官苻を賜った。延喜22年(922)8月5日、尊意57歳の時、内供奉十禅師に任ぜられた(『尊意贈僧正伝』)

 延長元年(923)6月29日、勅によって中宮(藤原穏子)の御産のため右僕射東五条邸(右大臣藤原忠平邸)にて7ヶ日間不動法を修した。第4日初夜の後には大聖歓喜天が出現したといい、よって加えて歓喜天も供した。7月24日には親王が誕生した。これが醍醐天皇第11皇子の寛明親王である。勅によって尊意は寛明親王の護持の師となった(『尊意贈僧正伝』)。この寛明親王こそ、後の朱雀天皇である。

 延長3年(925)夏、天下は大旱となった。7月14日の宣旨に、「大納言藤原朝臣清貫が以下の通りに宣す。勅を奉まわるに、炎旱旬を経し、雨は降らない。よろしく尊意大法師に仰せて、今月十六日より始めて3箇日の間、延暦寺において甘雨の法を修させなさい」とあるから、謹んで勅旨によって6口(人)の僧を引率して仏頂尊勝法を奉修した。同月19日、左少弁藤原朝臣元方は仰せて、「勅語をうけたまわるに、「一昨日雷公が響を発したが、僅かに2・3回聞えただけで、雨雲はまた治まってしまい、雨はいまだに降っていない。」と。ここによってさらに7箇日修を延長しなさい。」と。また勅語をうけたまわるに、「御占に「修法の間に穢の事があるだろう。公家は慎んでいるとはいえ、恐れはこの事であろうか。修法のついでにこの趣を謝って欲しい」と。延修の頃、第6日目の朝、尊意は夢に四大龍王示現の想を感じて、第4日目の正午には東南の隅からひとかたまりの雲が北を指して、いよいよ大きくなるや突然雨が降った。同月22日の宣旨に、「正修の4箇目に雨がすでに降った。感験ははなはだあらわれた。朝家はことごとく驚き、みな拝喜をした」と。また同月23日の宣旨に、「修した法はすでに感応があった。雨は快く降った。禁中の上も下も、諸人拝舞し、みな万歳を叫んだ。」と。尊勝の秘法の興隆はここに始まった(『尊意贈僧正伝』)

 延長3年(925)10月21日、寛明親王が皇太子に定められた。翌年延長4年(926)5月11日、61歳の時、天台座主に任ぜられ(『尊意贈僧正伝』)、名実ともに天台宗・延暦寺の頂点に立った。延長4年(926)5月、中宮が御産の時、邪気が中宮をなぶり悩ませ、ほとんど危急におよんだ。尊意は勅をうけたまわり、7日間不動法を修した。第3日目にいたって勅使藤原元方が勅語を仰せて、「もし母と子がともに得がたい時は、修善の力を母后に注いで欲しい」と。和尚はこたえて奏上し、「よく産む者も産まれる者もみな安穏をもってするのが明王の本誓です。どうして疑うことがありましょうか」といった。その日の暮、夜通しで護摩をたき、明朝6月1日辰尅(午後11時)、親王が誕生した。諱は成明といい、今の東宮皇太弟はこの方である(『尊意贈僧正伝』)。この成明親王こそ、のちの村上天皇である。

 同年8月12日に諸院検知の官符を賜った。翌年延長5年(927)10月28日、皇太子の宝祚長久(長寿)のため三十種の大願を誓った(『尊意贈僧正伝』)。延長6年(928)閏8月28日、尊意63歳の時、法橋位を賜った(『尊意贈僧正伝』)

 延長7年(929)3月、全国で疫病が流行し、死者は道に溢れるほどであった。朝廷は左・右京職に病人であろうとなかろうと食を賜って養護したが、病気の者はますます倍となり、人命は保ちがたかった。そこで宣旨して、「左大臣が宣す。勅を奉るところによると、“以下のように聞いている。真言の教えの中で、疫死を除く法があると聞く。速やかにその法を修して、災疫を払いなさい”と。謹んで綸旨によって30口の伴僧を率い、3月23日から宮中豊楽院にて7ヶ日の間、昼夜たえることなく不動法を修した。7日の内に疫病が退散し、重病の者も首をあげて命を長らえた。賞として度者32人を賜った。延長8年(930)夏、季節にわたって旱魃となった。6月27日の宣旨に、「左大弁藤原朝臣邦基傳宣。左大臣宣す。勅を奉るに、今月29日より5箇日の間、延暦寺において座主尊意をもって阿闍梨となし、8口の僧を率いて甘雨の法を祈り修せしむ」と。宣旨によって尊勝法を修した。雨はすでに降り、朝野は感激した(『尊意贈僧正伝』)

 延長8年( 930)に醍醐天皇が崩御すると、子の朱雀天皇が即位した。尊意は朱雀天皇の事実上の護持僧であったから、その後尊意の社会的地位は上昇していった。承平元年(931)10月27日、66歳の時、法眼位を賜った。同年12月1日、延暦寺中堂(根本中堂)にて始めて仏名懺悔を修した。その端緒は、延暦寺に寿栄という名の年90歳ばかりの老僧がいたが、その身は孤独で縁戚もおらず、臨終の時、発狂したような所作で左手に盆を取り右手で打ち、左手に衣をとるや右手で奪って脱いだ。罪報が招いたところとして、衆人は悲哀した。そのため尊意は『三千仏名経』一部を書写し、山中の能化6人を招いて三ヶ夜の間、三千の仏号を唱えて千僧の罪・孤独を滅させた。あわせて年中千僧供の銭米の数など、僧供の度数および施主姓名を報告させ、三宝に啓白してかの福祚を祈らせた。臘月(12月)1日をもってながく恒例とした(『尊意贈僧正伝』)

 承平2年(932)9月16日、西塔院釈迦堂において太上天皇の周忌御斎会を修した。尊意を講師とした。12月には惣持院潅頂道場において阿闍梨定心院十禅師行誓に伝法潅頂職位を授けた。承平3年(933)7月24・25日、天皇は相撲節のために仁寿殿に御した。尊意は勅によって護身法を献じた。同4年(934)春、弘徽殿の前の柿樹に鳥が巣を作ったため撤去することとなった。勅によって7日間不動法を修した。三日目から鳥が日々巣をついばんで北山に飛び去り、7日間のうちにことごとく撤去された(『尊意贈僧正伝』)

 承平4年(934)10月15日、ことさらに勅命により法性寺にて始めて潅頂した。この寺の阿闍梨のはじめはこれよりおこった。大臣諸卿はみなその庭に参じ、省寮は陳列して輿を担い、蓋(傘)をとって送迎した。尊意は昼に三昧耶戒を修し、夜に入壇潅頂を修した。参議兼右衞門(藤原実頼)をはじめとして20余人が潅頂を受けた。承平5年(935)10月12日、尊意69歳の時、少僧都に補任された。尊意は同年12月3日に辞表を出したが、28日に勅使侍従源某が山房に来て、辞表を許さなかった(『尊意贈僧正伝』)



比叡山延暦寺東塔東谷の三光院跡(手前)と華王院跡(奥)と延命院跡(最奥)(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

延命院の建立と新延命院

 延命院は承平6年(936)天台座主少僧都の尊意が勅を奉って造営したものである(『山門堂舎記』延命院)。承平8年(938)3月5日、尊意は延命院の供燈の事を奏聞した。「去る延長元年(923)、中宮が身ごもって天皇が御誕生になった時、謹んで仰せの旨を受け、宝算(天皇の寿命)を祈り、玉体(天皇の身体)の安穏を期しました。その後御願により、金剛寿命経および梵天・帝釈天像を造り、一堂を構えて諸尊を安置して延命堂と号し、金剛寿命密法を勤修し明王二天真言を持念しました。天皇が位にお即きになってから、いよいよ至誠をつくして宝祚(天皇の長寿)を祈り、昼も夜も怠ることはありませんでした。すでに16ヶ年におよび、修僧らは三時の勤練を行なっていますが、すでに歳月がたち、一鉢の底には露があるのみで、いまだに日々を過ごすための資財はありません。望み請うところは、特別に天裁(朝廷の裁許)を賜り、諸院御願の例に准じさせ、仏聖の灯油および七僧の日供を給付せられたい。ただし例の僧にもし欠員があった場合、定心院・惣持院・四王院などの例に准じて、寺家司に命じて階業の人のうち、顕教・密教に抜きんでて秀で、戒律が備わっている者を選んで、その替りに補任させます。」(『尊意贈僧正伝』)

 尊意の奏上によって天慶元年(938)5月25日、朝廷は延命院の三尊の供灯として近江国の料を賜い、七僧の日供として美濃国の料を賜っており、さらに同年8月7日には延命院の「七禅師」官符を授けている(『尊意贈僧正伝』)。これによって延命院は灯料・僧料といい、七禅師の設置といい、名実ともに御願寺としての体裁を得ることとなった。

 ところで、朱雀天皇には「十種御願」なるものがあり、尊意は朱雀天皇の意を受けて御願の実行を目指していたらしい。その一つとして同年8月7日に尊意が奏上した一万仏塔の修補もあったが、これは天皇の御願であるにもかかわらず、天皇自身が上意下達的に実施していたものではなかった。換言すれば御願の実施が天皇自身では行ない得なかったことを示している。この「十種御願」は他にどのようなものがあったか不明であるが、尊意は同年8月9日に御前に参上したついでに、60部の大般若経の書写と60体の観音の造立を御願として、実施を願い出るための「奏上」をしている。これらのことから、「十種御願」というのは、朱雀天皇自身の発案によるものではなく、漠然とした御願の構想が朝廷側にあった可能性はあるにせよ、それらの発案・理論的牽引・具体的方策が主導したものであったとみてよい。実際、承平8年(938)5月12日に尊意は摂政太政大臣藤原忠平のもとを訪れて、御願堂の僧供7人の料として美濃国を給うべきことを申し述べており(『貞信公記』承平8年5月12日条)、僧供料を得るために政界のトップに尊意自ら働きかけを行なっている。ところでこの承平8年(938)の段階では朱雀天皇は15歳の少年であったから、実際の御願はその母穏子の兄忠平であり、自身の日記にも普賢延命菩薩への信仰がみられており(『貞信公記』延長3年9月2日条)、そのことから延命院の御願は忠平によるものであったと考えられている(清水2009)

 延命院は天慶元年(938)に完成しており(『叡岳要記』巻上、延命院)、6月28日の内御修法において、山座主(尊意)は山御願堂(延命院)にて修法を実施し、覚慧は禁中で伴僧15人を率いて呼応した(『貞信公記』天慶元年6月28日)。10月21日に延命像(普賢延命菩薩像)を安置し、20口(人)の伴僧を率いて、7ヶ日間の夜、金剛寿命菩薩秘法を修した(『叡岳要記』巻上、延命院)。ただしこの修法は地震のためであったらしく、内御修法を山御願堂(延命院)にて行なっており、座主(尊意)が阿闍梨となって、伴僧14口を率いて修法した(『貞信公記』天慶元年10月22日条)。天慶2年(939)夏、この季節にわたって旱(ひでり)となり、田畑の存続が危うくなる事態となった。よって朝廷は尊意に宣旨を賜った。「先年の例に准じて、尊勝法を修し、甘雨を祈祷して、必ず感応させなさい。」 尊意は7月15日から延命院にて5ヶ日の間、20口(人)の僧を率いて尊勝法を修した。5日目になると大雨が降った。賞として度者22人を賜った(『尊意贈僧正伝』)

 以上のような経緯から延命院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられており(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、比叡山上の子院でありながら、四王院定心院・大日院とならんで、御願寺としての位置づけを得ることとなった。

 延命院の本尊は普賢延命菩薩像である。普賢菩薩は『法華経』普賢菩薩勧発品に、法華経信仰者を保護すると説かれているため、平安時代の人々は普賢影向(ようごう。現前すること)を期待しており、説話上でも夢に白象上の普賢に相対したというものがみられる(『大日本国法華経験記』叡山西塔蓮房阿闍梨伝)。ところが普賢延命菩薩は密教経典における尊像であり、雑密経典の提雲般若訳『諸仏集会陀羅尼経』(大正蔵1346)、不空訳『金剛寿命陀羅尼経』(大正蔵1134b)は奈良時代にすでに写経記録があり、空海が他に不空訳『金剛寿命陀羅尼念誦法』(大正蔵1133)を請来し(『御請来目録』)、天台宗では円仁が『金剛寿命陀羅尼念誦法』と不空訳『仏説一切如来金剛寿命陀羅尼経』(大正蔵1135)を請来した(『入唐新求聖教目録』)。またこの時円仁は「普賢延命像一鋪(三輻苗)」を請来しており(『入唐新求聖教目録』)、またそれは「普賢延命曼茶羅一鋪(三副苗)」とも称されていた(『前唐院見在書目録』)

 普賢延命菩薩は『金剛寿命陀羅尼経』によると、長寿を得せしめ不慮の事故を除く功徳があるとされている。延命院の建立目的は天皇の長寿を祈るためであったことは、尊意の奏上によって知られることであるが、不慮の事故を除くという点で延命院が建立目的の一つに数えられたとみられる。実際に延命院建立の6年前の延長8年(930)6月26日、大納言藤原清貫と右中弁平希世が清涼殿で落雷のため事故死するという事件があり、醍醐天皇は恐怖のあまり病床に伏せ、遂に崩御してしまった。のちにこの事件は醍醐天皇治世下に失脚した菅原道真の祟りとみなされ、天神信仰が隆盛する契機となったが、当時は単に「雷公」と記されるのみであり、すなわち菅原道真の祟りとはみなされておらず、事故として扱われていた。すなわち延命院は現実の出来事を背景に御願として建立されたものとみられる。

 前述したように尊意は7人の僧で三時の修法を行なっており、7人が三時に修法を行なうと21となり、また天慶元年(938)には20口(人)の伴僧を率いて金剛寿命菩薩秘法を修しているが、尊意を合わせると21人となる。この21人による修法は不空訳『仏説一切諸如来心光明加持普賢菩薩延命金剛最勝陀羅尼経』(大正蔵1136)に「もし病苦の衆生がいるのであれば、長寿を求め、故に病苦を離れる。すなわち道場を建立し、清浄の屋舎において、あるいは伽藍につきて、三七(21)の比丘・清浄僧を請い、この経を転読すること各四十九遍、別にこの陀羅尼を持すこと十万遍に満てば、すなわち寿命を獲たり」とあることを典拠としており、尊意は経典に忠実に御願を修していたことがうかがえる。

 延命院は朱雀天皇の御願寺であるが、同じく比叡山上に造営された朱雀天皇の御願寺として新延命院がある。この新延命院は朱雀太上天皇の御願で、天慶年中(938〜47)に詔を下して所司が建立したものである。太上天皇が崩御の後に3僧が設置されることとなった。天暦8年(954)4月28日に供僧3人の官符が下り、同日に度者(年分度者設置のことか)の官符も下った。中世期には桧皮葺の5間の堂が1棟あり、普賢延命像1体と梵天・帝釈・四天王像が安置されていた(『叡岳要記』巻上、新延命院)

 この新延命院については不明なことが多く、その実態は明らかではない。ところでこの新延命院は普賢延命像1体と梵天・帝釈・四天王像が安置されている。四天王像は普賢延命像が安置される壇外の四周囲に小壇を作って安置されることとなっており、これを四天王壇と名付けられていたという(『諸仏集会陀羅尼経』)。この四天王を普賢延命像の周囲に安置して行なう修法に、現在も延暦寺で行なわれる普賢延命大法がある。この普賢延命大法は、公式には承保2年(1075)に実施されたのが初出であるが、それ以前の延久4年(1072)にも2月9日にも非公式で実施されている(『阿娑縛抄』第220、普賢延命法日記)。例えば、普賢延命大法は5つの所為経典の組み合わせによって成立したものであることが指摘されているが(武2008)、平安時代初期までには概ねこれらの経典はそろっていた。ただしこれらの経典を解釈して修法に組み込むのにはいくつかの過渡期の段階があったであろうから、尊意による新延命院はその試みの一つとして行なわれたものであり、同時に朱雀天皇の「十種の御願」の一つとなっていたのであろう。また朱雀天皇御願とはいえ、藤原忠平主導であった延命院ではなく、新延命院こそが朱雀天皇の御願として建立されたとみる見解がある(清水2009)



比叡山延暦寺東塔の大講堂の背面(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)。延命院は中世期には大講堂の東側に位置していた。この写真の左側付近とみられる。

延命院の開祖尊意B 〜尊意の示寂〜

 尊意が延命院を建立した頃、最澄の根本法蔵(経蔵)の一切経の内、500巻ほどが不足していた。尊意は衣鉢を捨て施し、書写を行なった。同年11月、法華十講のついでに大講堂で題名供養を行ない、一切経を補充した(『尊意贈僧正伝』)

尊意は高齢であったが、朝廷から信認を受け、御願実行の中心的人物となっていたが、栄光の中で晩年は弟子に次々と先立たれていた。そのため、「釈迦如来が在世の時、舎利弗・目連大師は釈尊が涅槃される前に入滅してしまった。まさに今、耆老の平仁に去年山で死に、まだ壮年の阿闍梨が今年の春に死んでしまった。私の歳は80歳、命の残りは久しくはない。ああ悲しいかな。師資の契りは会うのは難しく、別れることはやさしい。無常の理(ことわり)の前後は知ることが難しい」と嘆いている(『尊意贈僧正伝』)

 天慶3年(940)2月23日、尊意は斎(おとき。昼食)の後、剃髪して沐浴し、弟子の恒昭に命じて、「余とこの界の縁はすでに尽きた。他生を期してこれらか逝こう。余は少年より観音に帰依して、あえて両心などなかった。お前は黄昏時になれば、千手陀羅尼を読んで加持し、ひとえに引き上げて欲しい。年来の頃の願いは極楽に生まれることであったが、今思いを改めて兜率天(弥勒菩薩の居所)に生まれたい。また火葬の後は骸骨を留めてはならないということは語ってきたが、今しばらく釈尊の遺身の舎利の縁を思い起こした。荼毘の後は葬墳のところに遺骨を置き、必ず石柱を建てなさい。これはわが弟子・同法および親疎讃毀を見聞した人をして兜率天への因縁をなさしむるためである。」(『尊意贈僧正伝』)

 また弟子達を誡めて、「葬送の法は、時日の吉凶を選ばず、陰陽の地鎮を用いず、ただ浄水を加持し、五字の呪を読み、その地を浄めて四方の境を結びなさい。詳しくは薬叡に言い含めている。またわが弟子達は喪服を着てはならない。四十九日の間は旧房に集まって念仏してはならない。それぞれが自房に住んで修学を怠るな。国家を誓護せよ」 ようやく黄昏時となって、恒昭は謹んで教誡の通りに千手陀羅尼を読み、法体を加持した。寅尅(午前3時)に及んで、尊意はことごとく上下内外の着る物を脱ぎ、さらに清浄の新しく清潔な法衣を着て穢履にいたった。皆は尊意の姿を見て威儀は常の倍となり、法則(声明)は欠けることなかった。手を洗って口をそそぎ、乾陀色の欝多羅僧(茶色の七条袈裟)を着て本尊に頂礼し、歩き出て輿に乗り、手は定印を結び、口に五字を唱え、兼ねて「大日観音」の名号を唱えて習禅房に赴いた。この習禅房は臨終のために生前に選んだところであった。そのため習禅房といったのである。この夜に雲や霧が山を覆い、霧雨が降った。翌朝には晴れ渡っていた(『尊意贈僧正伝』)

 24日、病気で苦しむことなく入滅した。享年75歳、臈年54。尊意が眼を閉じた朝には鳥が100羽あまり、房の付近の樹木に集まって飛んだり泣いたりするともなく、房の裏に集まって、互いに悲音を出した。人が聞いても驚かず、巳尅(午前9時)に飛び去って行った。尊意が斎食の時、一分の斎飯を放鳥の辺に施していた。26日早朝には極楽寺座主少僧都禅喜が尊意の骨を埋めて石柱を建てた。同日、朱雀天皇は勅使を派遣して、房前にて尊意の生前の功績と天皇の悲しみを述べた。尊意の遺弟は地にひざまずいて涙を流し、見聞きしていた大衆たちも悲しまない者はなかった(『尊意贈僧正伝』)


比叡山延暦寺東塔東谷の華王院跡(手前)と延命院跡(奥)(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

延命院の焼失

 延命院は幾度も焼失の憂き目に遭っている。康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院および故座主喜慶ら7人の房舎の全21宇が焼失しており、この時延命院もまた焼失した(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。天禄3年(972)には四王院とともに再建の作事が開始され、3月下旬には落成した(『慈恵大僧正拾遺伝』)

 久安2年(1146)3月19日には三井寺の僧侶らによって延命院一乗坊が焼き討ちされ(『天台座主記』巻2、48世権僧正行玄、天養2年条、首本久安2年条)、翌久安4年(1148)3月に中堂の僧侶によって延命院が焼き討ちされた(『法曼開祖相実贈大僧正伝』)。さらに元久2年(1205)10月2日子刻(午後11時)、延暦寺の法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂四王院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼と化し、延命院もまた焼失した。この放火は堂衆の所行であったと疑われている(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院・文殊楼・実相院などは再建のための棟上げが行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)

 中世期の延命院には桧皮葺の5間の堂が1棟あり、3尺(90cm)の延命像(普賢延命菩薩像)1体が安置されていた。他に彩色の梵天・帝釈天像がそれぞれ1体あった(『叡岳要記』巻上、延命院)。さらに延命院は講堂の東に位置していたという(『山門堂舎記』延命院)。建物は桧皮葺の五間堂が1棟あり(『叡岳要記』巻上、延命院)、さらに礼堂が付属していた(『御堂関白記』長和元年5月23日条)。延命院は比叡山の建築物として典型的な五間堂であったことが知られる。

 比叡山上の建築物は自然火災・内紛による放火など多くの焼失に見舞われているが、延命院は記録が少ないため詳細は不明である。元徳2年(1330)3月27日に大講堂・延命院・四王院・法華堂・常行堂の5堂の修造が完了しており(『閻浮受生大幸記(五代国師自記)』諸寺興隆大幸)、延命院を除いた建造物はすべて永仁6年(1298)の延暦寺の内紛で焼失したものを再建したことの記録であるから、延命院も永仁6年(1298)の延暦寺の内紛で焼失した可能性があろう。その後元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂四王院・延命院・常行堂などが焼失した(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)

 明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃し、早朝に細川勢に放火され、根本中堂大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失した(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)

 その後延命院に関する記録らしい記録はない。延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、延命院もまた焼失した。


比叡山延暦寺東塔東谷の華王院跡(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

近世以降の延命院

 ところで延命院は中世に「講堂の東」に位置していたが、江戸時代の復興時には東塔東谷に再建されている。東塔東谷は、東塔の東南の仏頂尾と、同じく東塔の東北の檀那院の二つのエリアに分かれている。うち延命院は仏頂尾に位置していた。

 延命院は江戸時代前期には復興していたらしい。学匠が住む室として位置づけられており、旧名は福円坊と号していた(『山門堂社由緒記』巻第1、東塔、東谷、現坊)。再建年については不明だが、『山門并葛川記』(1652撰)が記録上の初出で、以後明治12年(1879)の『山上坊宇間数調簿』にも記載があることから(武2008)、江戸時代前期から明治時代初期まで存続していたようである。

 「山門三塔坂本惣絵図」(内閣文庫蔵、1767年成立。武覚超『比叡山諸堂史の研究』口絵所載)によると、近世期の延命院は東坂を東塔に登る途中に位置しており、東塔東谷を檀那院とともに仏頂尾の地域であった。同絵図には檀那院廟(覚雲廟)より若干降ったところに位置していることが示されており、この付近には延命院のほかに、華王院・光聚院・白豪院・三光院がそれぞれ斜面を平削して建てられていた。

 「山門三塔坂本惣絵図」には東坂から一本が左側(南)に向って延びており、三光院の上(西)を通過してから上下(西と東)に分岐し、上部(西側)に延命院、下部(東側)に華王院が位置していた。地図上では単に北から南への移動にしかみえないが、実際には斜面を削って平坦地としているため、下に降る斜面となっている。ただし現在では道は存在しておらず、三光院跡から直接華王院跡を通過して延命院跡へ降る方法が、最も安易な延命院跡へのアクセス方法となっている。延命院が位置していたと思われる東塔東谷には斜面に廃寺跡とみられる複数の人工的な平坦地があり、三光院跡には江戸時代に積まれたとみられる石垣跡がある。

 その後延命院は近代に廃寺となったが、延命院の里坊は現在も比叡山の麓の坂本に現存している。里坊とは山坊の住していた僧侶が、老齢などによって山坊に住むことが困難であることから、麓の坂本に住むことを許されて形成された住坊のことである。この里坊の延命院もまた、江戸時代中期には記録上に現われており、享保11年(1726)8月29日に大僧都に推薦された延命院恵厳(『天台座主記』巻6、198世入道二品尊祐親王、享保11年8月29日条)と何らかの関係、すなわち老功の者として里坊を形成することを許されていたとみられる。坂本の里坊延命院は、山上の延命院が廃寺となった後も現存している。

[参考文献]
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・武覚超『比叡山仏教の研究』(法蔵館、2008年3月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年8月)


比叡山延暦寺東塔東谷の三光院跡の石垣跡(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



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