如意寺跡4(本堂跡)

 本堂エリアへ行くには、まず雨神社右脇の山道の十字路に一旦戻る必要がある。この十字路を深禅院方向とは逆方向へ、すなわち雨神社方向から左折する。


雨神社付近の山道の交差点(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

 左折すると写真下のように、すぐに道は二つにわかれる。ここは右側を進む。しばらく前進すると今度は3つにわかれるが、こちらは中央を進む。そこから蛇行する山道を100mほど進むと、右手に延寿堂跡の広い人工的な平坦地がみえる。


如意寺本堂跡への山道(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。この二手に分かれている道のうち、右側の木が敷かれている方を進む。



如意寺本堂跡への山道(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。下に造成された平坦地がみえる。



延寿堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

如意寺の創建

 如意寺の創建年代について、詳細は明らかではない。如意寺は幾度も焼失しており、中世の段階ですでに記録が焼失していたという(『寺門伝記補録』巻第6、祠廟部、戊、如意寺鎮守)。また中国宋の四明(寧波)の僧侶智恭が開慶元年(1259)に編纂した『如意寺記』なるものがあったというが(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)、これもまた現存していない。後世の伝説では、智証大師こと円珍(814〜91)が建立したことになっているが(例えば、天明7年(1787)版の『拾遺都名所図絵』巻之2、如意寺)、これらはあくまで後世の説話のなかでの如意寺にすぎない。

 ところで、広大な如意寺の伽藍のうち、西方院などの南側の子院は、安祥寺(上寺)の北限と近接する。そのため貞観4年(862)の「安祥寺伽藍縁起資財帳」に「北限は桧尾古寺所」とあることから(「安祥寺伽藍縁起資財帳」平安遺文164)、如意寺の前身として桧尾寺が考えられている。桧尾寺は、院号を法禅院ないし桧尾といい、天平3年(731)9月2日に起工され、山城国紀伊郡深草郷(京都市伏見区深草)に位置したと伝える(『行基年譜』天平3年条)。また初代東寺長者となった実恵(786〜847)が「桧尾僧都」と称されたが、後世実恵が承和12年(845)に桧尾寺を建立して隠棲したとする見解も発生した(『高野春秋編年輯録』巻第2、承和12年条)。嘉祥3年(850)3月27日、仁明天皇の初七日のため、仁明天皇陵付近の7ヶ寺(紀伊寺・宝皇寺・来定寺・拝志寺・深草寺・真木尾寺・桧尾寺)に使を遣しているが、道野王他14人を桧尾寺の使として遣している(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月乙巳条)。この桧尾寺について所在地・廃寺となった時期などは詳細はわかっていないが、如意寺の創建と何らかの関連性があるのかも知れない。実際西方院跡から平安時代初期の瓦が出土しており、かつ本堂の本尊であったという伝承がある千手観音菩薩立像(園城寺蔵、像高175cm)は、量感・衣文表現から9世紀の造立と推定されている。

 承平8年(938)4月13日に、擬階奏を行なおうとしたものの、式部少輔(藤原元方)が不参であったため、擬階奏が行なわれなかった。これは如意寺において故平中納言(平時望)の四十九日法会が行なわれていており、彼がこれに出席したためであったという(『貞信公記』承平8年4月13日条)。このことから、少なくとも平時望(877〜938)の存命中には如意寺はすでに建立されていたことが窺える。

 平時望の孫である平親信(946〜1017)は天延2年(974)6月13日に、前年の秋に行なうことができなかった花摘みを修するために如意寺に参詣した。ところがこの日は吉日であったため墳墓に礼拝し、急ぎ新堂にて誦経(読経)を修した。午刻には先閤(亡父。平真材)の墳墓を礼拝し、申刻には月林寺の東林にある先妣(亡母)の墳墓に礼拝した(『親信卿記』天延2年6月13日条)。さらに同年8月27日にも平親信は故守(亡父平真材)の忌日であったため、誦経(読経)料として布15端を如意寺に送っている(『親信卿記』天延2年8月27日条)

 後世如意寺は平親信が建立したものと考えられているが(『阿娑縛抄』巻第200、諸寺略記上、如意寺)、先にみたように少なくとも平時望(877〜938)の存命中には如意寺はすでに建立されていた。そのため如意寺の建立は平時望が父惟範の菩提を弔うため延喜9年(909)から承平8年(938)の間に建立したとみられている(小山田1993)。その後如意寺は平氏の菩提寺として機能するようになり、中世においても平氏の氏寺とみなされるようになる。例えば建保2年(1214)の「平親範置文」には、「また如意寺これ氏寺なり」とあり(「平親置置文」洞院部類記6、起請〈鎌倉遺文3194)、中世まで如意寺が平氏の氏寺とみなされていたことが知られる。


如意寺常行堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)。手前に礎石跡がみえる。

如意寺をめぐる説話

 京都の東側の山中に位置する如意寺は、たびたび説話や奇瑞譚の舞台となっている。その最初の人物は『日本極楽往生記』や『今昔物語集』に記される増祐(?〜976)である。

 沙門増祐は播磨国賀古郡(現兵庫県南西部)蜂目郷(不明)の人である。幼い時より入京して如意寺に住み、念仏読経した。天延4年(976)正月に身に小瘡(皮膚病)があり、飲食がままならなかった。ある人が夢で、寺の西の井戸の辺りに三車があり、「何の車か」と問いかけたところ、車の下の人は答えて、「増祐上人を迎えるためである」といった。再度夢をみると、車ははじめは井の下にあったが、今は房舎の前にあった。同月晦日、増祐は弟子に「死期はすでに至った。葬具を用意しなさい」といった。夜に弟子僧に助けられて葬むる場所へ向った。如意寺を去ること5・6町(500〜600m)ほどの場所に一つの大穴を掘り、増祐を穴の中に入れ、念仏すると世を去った。この時寺の南に20人ばかり、声を高くして阿弥陀の号を唱えた。驚いてたずねてみると、すでに人はいなかった(『日本往生極楽記』沙門増祐)

 如意寺の説話はこのように浄土教的色彩をもった説話からはじまるのであるが、浄土教において多大な影響力をもった人物が「洛東如意輪寺」と関連があるという説話がある。この「洛東如意輪寺」はその位置から、如意寺のこととみられる。この「洛東如意輪寺」に住した人物の一人には、前述の『日本極楽往生記』の撰者である慶滋保胤(931頃〜1002)が含まれる。

 慶滋保胤は賀茂忠行の第2子で、陰陽道を家学とする家に生まれたにもかかわらず、才能豊かで文章に巧みであり、当時他の者を上まわるほどであったから、文章博士菅原文時(899〜981)に師事した。門弟の中でも最も優れていた。寛和2年(986)に出家して法名を寂心とし、諸国を遍歴して広く仏事を行なった。もし仏像や経巻があったなら、必ず威儀を整えてから去り、礼節は王公に対するようであった。力強い牛や肥えた馬に乗ったとしても、涕泣して哀んでおり、慈悲は動物にも及んだ(『続本朝往生伝』慶保胤伝)。寛和2年(986)9月15日には「横川首楞嚴院二十五三昧起請」の起草にあたった(「横川首楞嚴院二十五三昧起請」)。長徳3年(長保4年(1002)の誤り)東山の如意輪寺にて示寂した。ある人の夢によると、衆生に利益するために浄土より帰ってさらに娑婆(この世)にいるという(『続本朝往生伝』慶保胤伝)

 慶滋保胤の弟子寂照(962頃〜1034)もまた、官人から僧侶となり、如意輪寺に足跡を残した人物であった。彼は後に入宋して真宗皇帝より円通大師号を受け、藤原道長から資金を送られるなど、対外交流史上著名な僧であるが、如意輪寺に滞在していた時期もあった。

 寂照は大江斉光(934〜87)の第3子で、早くから家業である官吏を務め、栄爵の後、三河守に任じられた。文章に長じており、彼の良句は人口に膾炙した。その後任国にて愛妻を失い、恋慕に耐えず葬送を遅らせてしまったがため、九想(死の変相)をみることになり、深く道心をおこしてついに出家した。法名を寂照という。長年にわたって仏法を修行し、あるいは乞食の業を行ない、今生の事を物の数としなかった。如意輪寺に住んで、寂心(慶滋保胤)を師とした(『続本朝往生伝』大江定基伝)

 このように、浄土教者が如意寺に集ったことが知られるが、如意寺にはやがて智証門徒の姿が散見されるようになる。智証門徒とは、天台宗において慈覚門徒ともに二大巨頭となった一派のことで、第5代天台座主円珍を祖とする宗派である。もとは比叡山上を中心に活動していたが、両者は対立するようになり、天元4年(981)12月、法性寺座主職に智証門徒の余慶(919〜91)が任じられたため、慈覚門徒は騒動をおこし、余慶が法性寺座主職を辞任する事となった(『扶桑略記』第27、天元4年12月条)。ここから不和・確執から慈覚・智証両門徒の争いはエスカレートし、正暦4年(993)8月、智証門徒千人が比叡山を退去したが、慈覚門徒は智証門徒側の勝算の房・満高の房・明肇の房・連代の房を焼き払い、千手院をはじめとした房宇40余宇、蓮華院・仏眼院・故座主良勇の房・房算の房・穆算の房・倫誉の房・実定の房・寿勢の房・湛延の房等を破壊した(『扶桑略記』第27、正暦4年8月10日比条)。これ以降、智証門徒が比叡山に住むことはなく、園城寺を拠点として「天台宗寺門派」を形成することになる。

 如意寺の説話の中で、最初に現われた智証門徒の僧は、智証門徒と慈覚門徒の対立が決定的となった事件の当事者である余慶であった。余慶が修行していた頃、如意峰に登って園城寺に行く途中、深い谷に松風が吹き、高い巌に滝が流れる中、読経の声がした。余慶は音の方へ行く手を遮る枝を折りながら行ってみると、3間4面(桁行3間の建物に1間の庇が周囲4面につく建物)の桧皮葺の建物があり、年30歳ばかりの僧が読経していた。余慶は静かに「年はいくつですか」と問いかけた。阿師なる僧は「今700歳になりました」と答えたものの、姿形はとても見えなかった。余慶は再度読経するよう勧め、法華経の安楽行品の諸天童子が給仕するの句にあたると、天童二人が降りてきた。一童は膳を持ち、一童は蓋を持っていた。その時余慶は普通の人ではないことを知った。膳を二つに分け、一つは余慶に与えた。その味はとても美味しかった。その後無駄話を数刻ほどして、帰ろうとしたところ、阿師「普通の人は来られないところである。今日出会ったことは嬉しくありがたい」、余慶「今日の奇怪なことは他の人にも伝えたいと思いますが、何を証拠といたしましょうか」、阿師「確かに」、余慶「所持している脇息を私に与えて下さい」、「百年もの間、ある時は読経し、ある時は疲れをとる時には、これを使っていたのだ。とても与えることはできない」といった。余慶は不動明王に加護をさせ、阿師はこれを知るや十羅刹女を唱え、法華経を読んだ。非常に怪異な容貌となった。余慶は神呪を唱えて印契を結び、大聖明王に貴した。この時脇息は壊れて真っ二つとなり、片方は阿師の所に、片方は余慶の前に来た(『園城寺伝記』5之6、阿師仙人与余慶僧正競験事)。このように如意ヶ嶽には堂宇があったこと、如意越えの道が園城寺へ行く道となっていたことが知られる。如意寺は後に園城寺の別院となるが、智証門徒が比叡山を降り園城寺に拠って、以後天台寺門派として隆盛する中、京都と園城寺を往還するのに如意越えの道は最も近道であることから、如意越えに位置する如意寺が園城寺の影響下に入ることは至極当然のことであった。京都からみるとすぐ東の鹿ヶ谷に如意寺が位置するのであるから、如意寺を園城寺の別院に組み込むことは、京都からみるとすぐ東に園城寺が位置するのと同義となる。すなわち如意寺宝厳院の月輪門が、園城寺の西門と位置づけられていたことは(『寺門伝記補録』巻第9、聖跡部丁、諸堂記目録、如意寺図説)、園城寺の西端は極めて京都に近接しているとする、園城寺側の意思表示でもあった。

 如意寺の僧の中には、円意(1172〜1252)のように鎌倉幕府の祈祷僧として活動する者が出ており、そのことは如意寺の伸張と呼応する。

 円意は園城寺の僧で、恒恵の門弟である(『園城寺伝法血脈』)。藤原長信の子で、兄弟に仁和寺の隆澄大僧都、忠通大僧都、延暦寺の良信権僧正がいた(『尊卑分脈』藤原氏、長信下)。承久3年(1221)5月27日には承久の乱に際して、如意寺法印円意ほか2人が供料を遣わされているが(『吾妻鏡』承久3年5月27日条)、円意は鎌倉方の戦勝祈願を行なっていたらしい。さらに寛元2年(1244)正月8日には天変の祈祷を行なった者の一人として、金剛童子法を行なった如意寺法印円意がみえる(『吾妻鏡』寛元2年正月8日条)。同年6月3日も天変の祈祷を行なった者の一人として、尊星王法を行なった「如意寺法印」なる人物がおり(『吾妻鏡』寛元2年6月3日条)、円意のことと思われる。また寛元3年(1245)2月25日に鎌倉幕府は久遠寿量院において八万四千墓泥塔の供養を行なっているが、円意は導師となっており、さらに「一壇 如意寺法印」とあるように、修法も行なった(『吾妻鏡』寛元3年2月25日条)。これ以降建長4年(1252)4月11日に示寂するまでの行動が不明となっているが(『園城寺伝法血脈』)、如意寺の隆盛は彼の門弟隆弁によって行なわれることとなる。


如意寺経蔵跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

隆弁の復興と園城寺子院化

 如意寺は余慶や成尋の説話からも窺えるように、しだいに園城寺の別院と化していった。こうした園城寺別院としての如意寺の発展に決定的な役割を果たしたのが隆弁(1208〜83)である。

 隆弁は、通称を「大納言法印」「若宮別当僧正」といい、俗姓は藤原氏で、父は内大臣藤原(四条)隆房(1180〜1239)で、母は藤原光雅の娘であった。13歳の時に覚朝の室に入って剃髪し、名を光覚といった。のちに明弁に謁して、名を隆弁と改めた。朝に夕に天台の教えを学び、それだけではなく密教にも及んだ。さらに証慶(1170〜1246)に師事し、また他日には猷円に仕えて、蘇悉地法および両部大法護摩諸尊法などを伝授された(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)

 ところで隆弁は天福2年(1234)3月22日の段階で、召されてはじめて鎌倉御所に入ったが(『吾妻鏡』天福2年3月22日条)、以降鎌倉幕府の信認を受け、修法をたびたび行なっている。嘉禎3年(1237)11月8日には箱根に奉幣の際、経供養導師となっていた(『吾妻鏡』嘉禎2年6月28日条)。嘉禎4年(1238)正月28日に将軍家(九条頼経)は京都に上洛したが、隆弁は御輿の護持僧の一人に選ばれている(『吾妻鏡』嘉禎4年正月28日条)

 嘉禎4年(1238)に円意に従って密潅頂を受け、中国宋の上天竺寺の天台僧である晦岩法照(1185〜1273)撰の『読教記』を閲覧して、積年の疑問が大海に出た氷のように溶けた(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)。このように隆弁は多くの師から学んでおり、最初の師覚朝は園城寺大覚院の僧で、園城寺長吏公顕(1110〜93)の門弟であった。さらに証慶は園城寺題者を務めた学僧であった(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈証慶伝)。隆弁が閲覧した晦岩法照『読教記』は、晦岩法照のもとに日本僧延慶・海順が来て聴講し、晦岩法照が撰した『読教記』と晦岩法照の図像を日本に請来したものであった(『続仏祖統紀』巻第1、諸師列伝之1、法照伝)。すなわちまだ生存していた中国の僧侶の著作を読むことができたように、隆弁は最先端の知識を取り入れることができる立場にあったのである。また円意は鎌倉幕府の祈祷僧であり、「如意寺法印」と通称されるとように、如意寺に住していたとみられる。

 隆弁は円意に弟子の礼をとることおよそ1000日、入堂礼仏して如法妙行すること80回、不動護摩供は3000回と、あえて数えることができないほどであった。ある夜、僧都寛親と園城寺の唐院に宿泊した。そこで智証大師が歩く草鞋(わらじ)の音が聞えたという。さらに夢の中で智証大師は「お前は我が弟子悟忍の再生である」といった。隆弁は目覚めて驚いた(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)。寛元元年(1243)6月、後嵯峨天皇の中宮(大宮院、1225〜92)が懐妊すると、勅によって産所に祗候し、加持を行なった。皇子(後深草院)が誕生したため、中宮の父西園寺実氏(1194〜1269)の奏上によって法印に叙せられた。寛元2年(1244)正月8日には天変の祈祷が行なわれているが、師の円意は尊星王法を行ない、隆弁も延暦寺僧の権僧都良信(円意の弟)のもとで十壇水天供法を修している(『吾妻鏡』寛元2年6月3日条)。寛元3年(1245)には最勝講の聴衆となり、また尾蔵寺の塔婆供養の導師となった(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)

 宝治元年(1247)6月27日、隆弁は鶴岡八幡宮別当職に補任された(『吾妻鏡』宝治元年6月27日条)。建長2年(1250)正月1日、鎌倉執権北条時頼(1227〜63)と隆弁は鶴岡八幡宮で会話し、その時隆弁は8月に室(葛西殿、1233頃〜1317頃)が懐妊するということを預言した(『吾妻鏡』建長3年5月15日条)。2月23日には園城寺の再興を願い出ており(『吾妻鏡』建長2年2月23日条)、同年9月4日には上洛している(『吾妻鏡』建長2年9月4日条)。ところがその4ヶ月後の12月5日に、鎌倉執権北条時頼の室が懐妊したため、隆弁を呼び戻す飛脚が京都に向い、隆弁を無理矢理鎌倉に呼び戻した(『吾妻鏡』建長2年12月5日条)。翌建長3年(1251)2月12日に隆弁は伊豆国三島の壇において、夢で白髪の老人が5月15日酉刻に男子が産まれることを告げたという(『吾妻鏡』建長3年5月15日条)。5月14日に隆弁は「明日酉刻に産まれる」と預言した(『吾妻鏡』建長3年5月14日条)。5月15日、丁度その時刻に若君(時宗)が誕生したため、隆弁の預言がすべて的中したことについて、驚かない者はいなかった(『吾妻鏡』建長3年5月15日条)。同月27日にはこの功績によって隆弁に能登国諸橋保(現石川県鳳珠郡穴水町)を与えられたが(『吾妻鏡』建長3年5月27日条)、隆弁はこれを如意寺領としている(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)

 隆弁が園城寺再興の宿願があったことは、先に見たとおりであるが、この頃を契機として如意寺の復興をも目指している。建長4年(1252)4月11日に師の円意が示寂しているが(『園城寺伝法血脈』)、隆弁は師円意が示寂したため、如意寺を管領する立場にあったらしい。

 建長5年(1253)10月2日、隆弁は上洛し、如意寺の復興を行なった(『吾妻鏡』建長5年10月2日条)。さらに同年12月28日に隆弁は京都から如意寺の鎮守諸社を勧請するため再度上洛した(『吾妻鏡』建長5年12月28日条)。建長6年(1254)2月28日に、隆弁が行なった如意寺造営勧進において、北条時頼らが寄進しているが、3月7日に評定にて沙汰されている(『吾妻鏡』建長6年3月7日条)。このことから、隆弁と北条時頼の個人的信認を基に如意寺再興事業が鎌倉幕府の公的認可のもとに行なわれていたことが知られる。それを示すように建長6年(1254)6月25日に了行法師は自身が造立した京都の持仏堂・宿所などを如意寺の造営に寄進しているが(『吾妻鏡』建長6年6月25日条)、この了行法師という人物は勧請に長けた人物であったものの、建長3年(1251)12月に佐々木氏信(1220〜95)・城景頼(1204〜67)らとともに幕府の顛覆を図り、勧進に託して同志を募っていたという嫌疑により逮捕されている(『鎌倉年代記』裏書)。この事件により処刑されたものがいなかったことから冤罪であったとみられるが、了行法師が自身が得意とするところの勧請をもって如意寺再興事業に関与し、それによって隆弁や北条時頼の覚えを良くする意図があったのかもしれない。

 このように如意寺と園城寺の再興を宿願としていた隆弁であったが、文永元年(1264)5月2日、園城寺三摩耶戒壇の事を契機として、延暦寺の軍勢が園城寺を攻撃して焼き払ってしまった。園城寺はもと智証大師円珍を祖とする流派である智証派の一拠点にすぎなかったが、正暦4年(993)に比叡山上での慈覚派・智証派の抗争が頂点に達し、武力衝突するにおよんで、智証派は比叡山を引き払って園城寺に拠点を構えた。これが天台宗寺門派の嚆矢である。ところが日本天台宗の開祖最澄は、僧となるためには大乗戒壇の受戒を必須条項として規定しており、そのため苦難の末に南都の戒壇院から独立して比叡山上に戒壇院を設立していた。園城寺の寺門派は比叡山を引き払ったため、比叡山上の戒壇院での受戒が不可能となり、便法として南都の戒壇院で受戒していた。しかしながら園城寺に戒壇設立することは智証派の悲願であり、一方の比叡山側にとっては是が非でも阻止しなければならない重要事項であった。そのためこれを原因としてたびたび武力衝突が発展し、園城寺は文永元年(1264)まで4度にわたって比叡山に焼き討ちされていた。なお如意寺は文永4年(1267)12月に炎上した園城寺本堂にかわって、如意寺本堂で十月会が開催されていたことから(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈勤尊伝)、如意寺は無事であったらしい。正元元年(1259)9月14日に隆弁は上洛し、翌正元2年(1260)正月4日には奏達して園城寺三摩耶戒壇設立の勅許を得たが、比叡山の山徒が強訴したため、同月20日には勅許の官府が召し返される事態となった。そのため同月21日に園城寺の衆徒は、僧正仙朝ら30余人が金堂に会して僉議を行なったが、結局23日に解散した。失意の隆弁は3月1日に京都から鎌倉に戻ってしまった(『吾妻鏡』正元2年3月1日条)

 隆弁は弘安6年(1283)8月15日、関東の長福寺で示寂した。76歳であった。遺言により如意ヶ峰の西方院に葬られ、塔を築いて供養が行なわれた。隆弁は若い頃、勉学に励んだが、貧乏のため灯を買えず、衣の裏を解いて油売りの翁に与えていた。数日後、今度は衣の表を解いて油売りの翁に与えようとすると、翁は「どうしてこのようなことをするのですか」と聞いてきた。隆弁は「学問に志があるのですが、油がありません。だからこうするのです」といった。翁は無言で立ち去った。翌日、翁は衣の表と裏を合わせて持ってきて、「あなたの志は立派です。この衣を身にまとって勉強して下さい。油は私が必ず用意します」。言い終わるや隆弁は毎夜怠らず勉強し、大成すると翁の恩に報いたという(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)


如意寺本堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

如意寺の堂宇

 如意寺は隆弁による再興が行なわれた。結果、「如意寺幅」に描かれるように70近い建造物を有する巨大寺院へと発展したのである。

 本堂跡は、鹿ヶ谷から直線距離で2.5kmほどあり、反対側の園城寺のある滋賀県大津市もまたほぼ同距離である。現住所でいうと京都市左京区粟田口如意嶽町1-9、1-10となる。東西230m、南北200mほどの区域に伽藍跡とみられる平坦地が10箇所あり、本堂跡は最も広い平坦地に位置する。

 山道を進むと右手に最初にみえるのが延寿堂である。延寿堂は「如意寺幅」には桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間4間の縁が周囲にめぐる建物として描かれる。延寿堂跡を通過して山道を進むと、広い平坦地に出る。平坦地に出て30mほど進むと、常行堂跡に着く。常行堂跡には現在も礎石跡が残存している。「如意寺幅」によると、桧皮葺宝形造の方5間の堂であり、延暦寺東塔の常行堂の形式を踏襲していたことが知られる。この形式は現在延暦寺西塔常行堂(にない堂)でみることができる。現在の礎石跡は方3間の規模で残存しており、平安後期の方3間の現存する建物では神戸市西区の如意寺、兵庫県加古川市の鶴林寺のものがある(江谷・坂誥2007)。常行堂跡の西側20mほどの地は三重塔跡とみられる。「如意寺幅」には本瓦葺の三重塔として描かれている。かなり小規模であったとみえ、規模は現存する興福寺三重塔に近いものであったと推測されている(江谷・坂誥2007)。なお「如意寺幅」には三重塔に基壇があることが確認できるが、この基壇跡は確認されていない。

 常行堂跡のすぐ山手側には経蔵跡とみられる基壇跡がある。「如意寺幅」によると、桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間4間である。なお「如意寺幅」には両堂の間に築地があって、距離があるかにみえるが、実際にはそれほど間隔があるわけではない。経蔵跡をすぎると、すぐに40m四方の規模の平坦地となる。ここに本堂・跡エリアとなる。

 本堂跡は標高425mほどのところに位置し、「如意寺幅」によると桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間5間、縁を周囲にめぐらせている。また本堂の背後には桧皮葺一間社流造の護法白山社が鎮座していた。本堂では文永4年(1267)12月に、炎上した園城寺本堂にかわって、如意寺本堂で十月会が開催されている(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈勤尊伝)。発掘調査によると、現在の本堂跡は、削平した岩盤上に基壇を版築・盛土で造成したもので、14世紀以降のものとみられている(江谷・坂誥2007)。如意寺は建武3年(1336)に焼失しているから、これ以後の再建事業と関係あるのかもしれない。本尊は「如意寺幅」には本尊は千手観音であるとしており、園城寺蔵の千手観音菩薩立像(9世紀、像高175cm)はもと如意寺の本尊で、如意寺廃絶時に僧侶が守護して園城寺別所の微妙寺に安置したという(『如意寺本尊開扉法則』)。なお、「如意寺幅」には本堂の前に「住吉明神礼拝座石」なるものが記されているが、現在は本堂基壇上に位置している。このことから、如意寺が廃寺になった後に基壇跡上に同石が移動させられた可能性が示唆されている(梶川1991)

 本堂跡の西側の、現在崖となっている場所には「如意寺幅」によると鐘楼があった。鐘楼は桧皮葺入母屋造の袴腰の建物として描かれる。また「如意寺幅」には、本堂のすぐ南東側に食堂が位置しており、桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間4間で、縁を周囲にめぐらせている。またその南側には桧皮葺一間社流造の新羅社が鎮座する。

 本堂エリアは、南側の楼門と左右に延びた回廊によって分断される。楼門は「如意寺幅」によると桧皮葺入母屋造で、3間2階建である。楼門には石階段で接続しているが、階段の左右には、本堂の地面と同高で東西に分かれている。西側は前述した常行堂・三重塔が位置しており、東側には法華堂・講堂が描かれる。

 法華堂は「如意寺幅」によると、桧皮葺宝形造の方5間の建物として描かれる。これも延暦寺東塔法華堂の形式を踏襲したもので、この形式も延暦寺西塔法華堂(にない堂)でみることができる。ところで発掘調査にともなって行なわれた地形測定によると、10mほどの平坦地であって、常行堂跡よりも小さい方3間の建造物か、あるいは南側の傾斜地に柱を建てて懸造とすれば、常行堂跡と同規模の方3間の建造物が建てることが可能とみなしているが(江谷・坂誥2007)、如意寺は建武3年(1336)に焼失し、その後再建されているのであるから、「如意寺幅」に描かれた鎌倉時代から南北朝時代の常行堂・法華堂とは規模が根本的には異なる可能性も考えられるであろう。講堂は「如意寺幅」には桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間5間の建造物として描かれる。現在の講堂跡は、法華堂跡よりも5m低いところに位置している。なお発掘調査によると、現在の講堂跡は、周囲の廃絶した遺構を削平して、その土砂で造成したことが明らかとなっている。その基壇は桁行5間(15m)、梁間4間(10m)であった。

 本堂エリアには「如意寺幅」によると、高良社・神権社八幡大菩薩・武内社・若宮・稲荷社・三島社・大黒堂・不動堂・拝殿が描かれている。これらは前述の本堂主要建物の南側に位置しており、しかも標高410〜310mと、低くなる場所に位置していた。なおここから200mほど標高370〜320mのところに降ると、「如意寺幅」に描かれる山主社跡・正宝院跡に到達するが、倒木が極めて多く危険を伴うため、今回は行くことを断念した。なお山主社跡・正宝院跡には滋賀県側から林道が延びているため、ここから行くことができるとみられるが、確認はしていない。正法院は「如意寺幅」に桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間4間で周囲に縁が廻る建物として描かれ、正宝院の楼門である藤尾門は、桧皮葺入母屋造の3間2階建として描かれる。


如意寺跡住吉明神礼拝座石(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

如意寺の焼失と門跡化

 如意寺は隆弁による再興が行なわれた。結果、「如意寺幅」に描かれるように70近い建造物を有する巨大寺院へと発展したのである。

 ところが如意寺は建武3年(1336)に如意寺は焼失してしまった。原因は後醍醐天皇と足利尊氏の戦闘において、園城寺が足利尊氏方についたことで、尊氏の敗北とともに焼き払われてしまったのである。園城寺は足利尊氏側についたが、対立する比叡山は朝廷側についた。『太平記』には、山門(比叡山)の大衆20,000余人が、徒歩で如意越えを搦手に廻り、時の声を揚げて園城寺を同時に攻撃しようと、鳴りを潜めて待気した。朝廷側の新田勢の攻撃と同時に山門は攻撃を開始し、園城寺を焼き払ったとある(『太平記』巻第15、三井寺合戦並当寺撞鐘事)。このように如意越えの道を制圧した山門が、新田勢と呼応して園城寺を焼き払ったことが記される。園城寺への攻撃は建武3年(1336)正月16日のことであったが、その11日後の27日に、今度は如意寺が焼き払われている。この時如意寺西方院・月輪院(月輪門か)が焼き払われている(『寺門伝記補録』巻第20、雑部、丙、寺門数度寇患事)。このように如意寺は朝廷側によって焼き払われたことが知られる。この攻撃によって「如意図福」にみられる壮大な伽藍の大半は焼失してしまった。同年10月13日には近江国の一円の荘園を、如意寺僧正の支配下に置くとの院宣が下されている(「光厳上皇院宣」中村直勝博士蒐集古文書)

 園城寺が足利尊氏側について焼き払われてしまったため、その後尊氏の室町幕府の成立とともに、園城寺は尊氏の信認を大いに受けることとなる。貞和3年(1347)には園城寺の再建計画が立てられたが、ともに園城寺別院である如意寺の再建計画も含まれることになる。それによると、如意寺は本堂以下30の堂宇を再建するための費用として27,000貫文が計上され、如意寺子院の西方院は、本堂以下14の堂宇を再建するための費用として11,550貫文、同じく如意寺子院の宝厳院は般若台以下22の堂宇を再建するため14,000貫文が計上された(『三井寺続灯記』巻第8、修造用脚員数事)。このように66の建造物が再建の対象としてあげられていることから、建武3年(1336)の焼失は、文字通り如意寺を壊滅させるほどの被害をもたらしており、「如意寺幅」に描かれた建物はすべて焼失していたことが窺える。

 園城寺および如意寺の再建の勧進に尽力したのが、什弁(1260〜1351)である。什弁は高師直(?〜1351)の子というが、什弁は高師直が謀殺された観応2年(1351)に91歳で示寂していることから(『三井寺続燈記』巻第2、僧伝1之2、釈什弁伝)、師直の子ではないものの、高氏と関連する人物であったらしい。顕教・密教を学び、名は天下に轟いていた。そのため公武の崇敬は普通とは倍ほどのものであったという。建武3年(1336)に園城寺が焼失すると、命により大勧進となり、堂舎を建立していった。真言を長乗より受法し、円戒を増仁より授けられた。ある年疫病が流行し、一家に必ず罹災者がおり、罹れば必ず死に至ったほどであった。その時ある疫神がある家に入ったところ、門から出てきた。その理由を問うと、「家の中に什弁の手書があった。仏天が守護している。私が住むべき所ではない」といった。そのため他の疫神たちは舌を巻いて退散したという。おしなべて什弁は梵字を得意とし、両界曼荼羅も書いた。世に多く広まっていたという(『三井寺続燈記』巻第2、僧伝1之2、釈什弁伝)。彼の書いた梵字や曼陀羅を所有するものは疫病から逃れられるという風評があったらしい。この什弁の手書によって、園城寺再建の資金を集めることができたのであろう。観応2年(1351)4月23日、盗賊が西方院に入った。院中の者たちはすぐに避難したが、什弁は恐怖することなく禅床にいたから、斬殺されてしまった。92歳。世の人は「慈心上人」と号した。噂によると、斬殺した盗賊は悔い改めて剃髪し、仏門に入ったという(『三井寺続燈記』巻第2、僧伝1之2、釈什弁伝)。なおこの年2月26日には室町幕府内の内抗である観応の擾乱によって、高師直・師泰ら高氏一族が族滅されており、この2ヶ月後に什弁が斬殺されたのは、この一連の動きと何らかの関連があるのかもしれない。

 如意寺は中世には門跡寺院となっていた。門跡寺院は、現在では親王や宮家の皇族の血筋の者が住持となる寺院と考えられがちであるが、実際には貴種が住持する院家の院主のことを指し、江戸時代には摂関家が代々を継ぐ摂家門跡、清華家が継ぐ清華門跡というように、単に一定の一門の血筋の者が住持職を継ぐ寺院全般を指した。如意寺はこのうち摂家門跡に該当した。またこの門跡位は、鎌倉の鶴岡八幡宮寺別当職と大いに関係があった。同職は園城寺の僧で、かつ貴族・有力御家人の子弟が任命されることが多く、そのため鶴岡八幡宮寺別当に任命された園城寺の僧は、貴種であることから、園城寺の子院の院主であるのが至極当然となっていた。そのため如意寺の門跡には鶴岡八幡宮の別当を務めた者が多かったのである。例えば前述した隆弁もまた第9代鶴岡八幡宮寺別当であった。

 如意寺の門跡は当初、鎌倉幕府第2代将軍源頼家(1182〜1204)の子が就任していた。源頼家は将軍となってから専断政治を行なったため、有力御家人らによって将軍職を剥奪され、のち弑逆された。如意寺の門跡は、当初亡き頼家の子が就任していたのである。公暁(1200〜19)は鎌倉幕府第2代将軍源頼家の次男である。公暁は如意寺の門跡となったが、建保7年(1219)正月27日に鶴岡八幡宮に参詣していた第3代将軍源実朝を斬殺し、29日夜に誅殺されている。なお公暁は第4代鶴岡八幡宮寺別当であった(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』)。同じく如意寺門跡となった栄実(1201〜15)も源頼家の子で、童名を千手丸といい、母は昌実法橋の娘であった(『諸門跡譜』如意寺)。建保2年(1214)10月6日に和田義盛の一党とともに京都で謀叛を謀ったとして討伐の兵を向けられ、自害している(『吾妻鏡』建保7年10月6日条)

 道瑜大僧正(1256〜1309)は、関白二条良実(1216〜70)の子で、隆弁の法嗣である。後に准三后となっている(『諸門跡譜』如意寺)。なお道瑜は第12代鶴岡八幡宮寺別当であった(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』)。道珍大僧正(1274〜1313)はは鷹司基忠(1247〜1313)の子であり、静珍・道瑜の法嗣であった(『諸門跡譜』如意寺)。なお道珍は第13代鶴岡八幡宮寺別当であった(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』)

 頼仲僧正(1284〜1354)は仁木師義の子である。佐々目大僧正頼助の門弟であり、建武3年(1336)6月20日に鶴岡八幡宮寺別当となった(『諸門跡譜』如意寺)。なお頼仲は第19代鶴岡八幡宮寺別当に数えられる(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』)。兼助僧正は摂政二条兼基(1268〜1334)の子である(『諸門跡譜』如意寺)。道基(道意)大僧正(1358〜1429)は関白二条良基(1320〜88)の子で、良瑜の法嗣である(『諸門跡譜』如意寺)。永享元年(1429)10月15日に如意寺で示寂した(『満済准后日記』永享元年10月15日条)


如意寺食堂跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

如意寺の廃寺

 建武2年(1335)8月14日、信濃国倉科荘をめぐって、城興寺は如意寺僧正雑掌を雑訴決断所に訴えたが、如意寺僧正雑掌は数度におよぶ将官命令に応じなかったため、雑訴決断所によって倉科荘が点定されることとなった(「雑訴決断所牒」市河文書)

 応永31年(1424)8月13日、将軍足利義持は如意寺境内に南禅寺僧の葬所を造営するため、如意寺が管領していた秋野の地を南禅寺に与えるよう、道意に対して申し渡している。この地はもともと南禅寺が管領する地であり、明徳元年(1390)以来常住院准后こと良瑜(1317〜97)に与えられた。常住院准后はこの地を東山天神に寄進したため、毎年9月5日の祭礼の際には、神輿供奉人・巫女などがこの敷地の内の者が皆その役に従事してきた。そのため将軍足利義満は御書渡状以下2・3通を出して安堵していた。しかしもともとこの地を所有していた南禅寺は、この地に南禅寺の葬所があったと主張した。至徳4年(1387)に義堂周信(1325〜88)が慈氏院を建立した時、慈氏院が南禅寺延寿堂の跡地にあったから、替え地として慈氏院から秋野の地小丈四方を購入し、南禅寺葬所としたというのである。そのため4・5年間は南禅寺の葬所であり、常住院准后がこの地を拝領してから無理に押領されたと主張したのであった(『満済准后日記』応永31年8月13日条)

 如意寺は応仁の乱によって焼失し、以後再建されなかった。応仁2年(1468)9月28日、如意寺および岩坊が焼失した(『大乗院寺社雑事記』応仁2年9月28日条)。この時如意ヶ嶽に兵士が満ちており、神社・仏閣を破却したが、本尊の千手観音は僧侶が守護して園城寺別所の微妙寺に安置したという(『如意寺本尊開扉法則』)

 江戸時代になると、如意寺の名跡を惜しんだ霊鑑寺の尼公が如意寺を再興したが(『拾遺都名所図絵』巻之2、如意寺)、これも明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となった。なお江戸時代に再興された如意寺は、霊鑑寺の東南にあった寺院で、現在のノートルダム女学院の地に位置していた。


如意寺講堂跡下の石垣跡(平成21年(2009)10月5日、管理人撮影)

[参考文献]
・上山春平「特輯『如意寺の諸問題』に寄せて−博物館と如意寺研究会」(『古代文化』43-6、1991年6月)
・梶川敏夫「如意寺跡−平安時代創建の山岳寺院」(『古代文化』43-6、1991年6月)
・森郁夫「如意寺調査の経過と今後の課題」(『古代文化』43-6、1991年6月)
・山岸常人「如意寺伽藍の形成とその性格」(『古代文化』43-6、1991年6月)
・小山田和夫「如意寺の創建に関する覚書」(『古代文化』45-2、1993年2月)
・小山田和夫「如意寺の僧侶たち」(『立正史学』73、1993年3月)
・江谷寛「古代中世の山岳寺院−如意寺を中心として」(『考古学ジャーナル』382、1994年11月)
・「如意寺跡藤尾方面調査報告」(京都大学考古学研究会『とれんち』50、2001年11月)
・江谷寛・坂誥秀一編『平安時代山岳伽藍の調査研究:如意寺跡を中心として』(古代学協会、2007年6月)
・大阪市立美術館・サントリー美術館・福岡市博物館他編『智証大師帰朝1150年特別展-国宝三井寺展』(NHK大阪放送局・NHKプラネット近畿・毎日放送局、2008年10月)


『拾遺都名所図絵』巻之2、如意寺(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉198頁より一部転載)。江戸時代に霊鑑寺の尼僧によって再興された如意寺で、現在廃寺となって跡地にはノートルダム女学院がある。よって本コンテンツでの如意寺とは位置的には全く関係はない。



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